本能寺の変で織田信長が討たれた後、重臣たちの会議によって「三法師」が織田家の次期当主となります。
この「三法師」とは誰のことでしょう?
三法師とは誰のこと?
三法師とは、織田秀信(おだひでのぶ)のことです。
織田信長の嫡男・織田信忠の長男なので、信長の孫にあたります。
本能寺の変の際は岐阜城におり、その後、保護され清州城に避難して無事でした。
清州会議で織田家の家督を相続したとき、三法師はまだ3歳。
当然家中を治めることなどできませんので、この後織田家は権力争いがエスカレートしていきます。
三法師のその後
三法師は織田家の当主となった後、権力争いに巻き込まれ、岐阜城→安土城→坂本城→京都→坂本城とコロコロ居場所を変えられます。
その権力争いの中、小牧・長久手の戦いという戦で秀吉が織田信雄(信長の2男・三法師の叔父)を降伏させると、秀吉は信雄を織田家の当主としました。
つまり、三法師は何も知らない子供の間に織田家当主となり、物心つく前に当主を辞めさせられています。
織田信雄の降伏によって、織田家と羽柴家の主従が入れ替わったため、三法師もその後は豊臣秀吉の家臣として生きることになります。
9歳で元服し、織田秀信を名乗ると14歳のころには13万石、岐阜城主となります。
関ケ原の戦いでは、当初徳川家康につこうとしていますが、石田三成からの書状をもらって心変わりし、西軍に味方しています。
三法師の最期と死因
三法師(織田秀信)は関ケ原の戦いの5年後に亡くなります。
死因は、病死もしくは自害とされています。
秀信は、関ケ原の戦いで改易され、高野山で修行を積むことになります。
しかし、その昔、祖父・織田信長が高野山を攻めていたため、秀信は高野山で迫害を受けたと言われています。
それから数年後、秀信は高野山を下山します。
病気療養のために下山したとも、追放されたとも言われています。
下山から約3週間後、26歳の生涯を閉じました。
豊臣秀吉との関係は?
豊臣秀吉と織田秀信との関係は、最初は「秀吉が家臣、秀信が主君」でした。
その後、秀吉が織田の家中で権力を増すと、ついには織田信長の子供で秀信の叔父である織田信雄・織田信孝すらも秀吉に逆らえなくなります。
小牧・長久手の戦いで織田信雄を降伏させると、秀吉と織田家の主従関係は逆転しました。
以降、「秀信が家臣、秀吉が主君」となります。
秀信は、秀吉のもとで朝鮮出兵などに参加しています。
関ヶ原の戦いには参戦した?
前述のとおり、織田秀信は関ケ原の戦いにも参加しました。
当初、徳川家康の会津討伐に従う予定でしたが、準備が間に合わず、出陣を見送っています。
そうしたなかで、石田三成から勧誘の書状をもらい、西軍に加勢することを決めました。
秀信が石田三成についたと知った東軍は、岐阜城を目指して進軍します。
それを察知した秀信は、米野という場所に兵を配置し、東軍を迎え撃ちます。
しかし、米野に配置した西軍は3000。
進軍してくる東軍は1万8000です。
昼頃に始まった戦は、夕方には決着がつきました。
秀信は岐阜城まで逃れ籠城。
激しい攻撃がなされ、次第に追い詰められた秀信は切腹を試みますが、敵将の説得により思い直して城を明け渡します。
その後、東軍についていた福島正則が自らの武功と引き換えに秀信の助命を嘆願。
秀信は禄を没収され、高野山に送られることになります。
まとめ
三法師(織田秀信)は織田信長の孫で、一時は最高権力者・織田家を継ぎました。
しかし、まだ子供の頃に豊臣秀吉が権力を掌握し、織田家は豊臣家の主従が逆転します。
その後は豊臣家の家臣として過ごしますが、関ヶ原の戦いで西軍について改易。
死刑は免れたものの、祖父と因縁のある高野山に送られ、そこで体調を崩して若くして亡くなりました。
最高権力者の孫として生まれたものの、自身の気づかぬ内にその権力が他人に移ってしまった三法師の生涯をご紹介しました。