【本能寺の変】をごく簡単に-事件の流れと影響・その後と様々な説

【本能寺の変】をごく簡単に-事件の流れと影響・その後と様々な説 映画・ドラマ
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歴史的に有名な大事件「本能寺の変」をごく簡単にできるだけわかりやすくまとめます。

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【本能寺の変】の簡単な流れ

「本能寺の変」とは、織田信長が部下の明智光秀に殺された事件のことです。

信長が泊まっていた本能寺で明智光秀の襲撃を受けたため「本能寺の変」呼ばれています。

当時、織田信長は天下統一まであと少しのところでした。

中国地方の有力者・毛利輝元と戦っていた羽柴秀吉が、毛利にトドメを刺すために信長に援軍を頼むと、信長はこれに応えて出陣を決めます。

明智光秀には先に秀吉のもとへ向かうように命じ、信長は京都にしばらく滞在してから中国地方へ向かう予定でした。

その京都での滞在中、先に中国地方へ向かったはずの明智光秀の軍隊が、信長の宿泊する本能寺に攻め込み、信長を自害に追い込んだというのが本能寺の変の流れです。

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本能寺の変の真相

本能寺の変の真相は未だに分かっていません。

それだけではなく、定説や通説すらも存在しないという珍しい事件です。

永遠のミステリーとも呼ばれ、真相解明が最も難しいとされる日本史上の出来事です。

光秀が信長を討った動機を示す史料はなく、光秀やその重臣たちも、本能寺の変の後の短期間の内にほとんどが討ち取られています。

光秀が各大名に送ったとされる書状も、彼らが後難を恐れて破棄もしくは隠蔽しているため、「光秀がなぜ信長を裏切ったのか」ということに関する史料はほとんど存在しないとされています。

このため、この事件に関しては想像の幅が大きく、多くの人が様々な説を提唱しています。

日本史上最も多くの説が乱立しているとされるのがこの「本能寺の変」です。

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本能寺の変のその後

午前4時頃、光秀は信長が泊まる本能寺を完全に包囲すると、そのまま襲撃を開始しました。

その後、午前8時には討ち入りが終わったと言われています。

しかし、討ち入り後、明智の兵達は信長の遺体を見つけることができませんでした。

このため、「信長はまだ生きている」というウワサが流れ、多くの武将が明智光秀につくのをためらったとされています。

その後はよく知られているように、毛利と戦っていた羽柴秀吉が電光石火の中国大返しを見せ、山崎の戦いで明智軍を破ります。

敗戦後、居城の坂本城を目指して落ち延びていた明智光秀は、落ち武者狩りに遭って命を落としたとされています。

しかし、当時の史料で明智光秀の首を確認したというものが残されていないため、この時討たれたのは影武者であり、光秀はこの後も生き延びたという説が存在します。

その説によれば、光秀は荒深小五郎と名前を変え、75歳くらいまで生き、その子孫も存在すると言われています。

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本能寺の変の影響

当時の最高権力者・織田信長が突然亡くなったことで、歴史は大きく変わりました。

このころの織田信長は、天下を手に入れる直前と言えました。

一番大きな領土を持ち、東北の伊達、最上、蘆名といった有力者は従う姿勢を見せており、後に秀吉の天下統一の最後の敵となった相模の北条氏も、信長には従属的な立場を取っています。

九州ではほとんどの地域を治める大友・島津の2大大名と友好関係にあったとされています。

残るは中国の毛利、越後の上杉、四国の長宗我部、このあたりを従えれば天下統一で、そのうち中国の毛利は攻略寸前でした。

そのトップがいきなりいなくなるわけですから、当時の混乱は凄まじかったと予想されます。

皆さんご存知のとおり、この後豊臣秀吉が見事な手腕で信長のあとを引き継ぎ、天下統一を成し遂げることになります。

ですが、本能寺の変が起きていなければ、織田信長がそのまま天下を統一し、織田政権がしばらく続き、豊臣・徳川の治世ではなかったかもしれません。

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明智光秀はなぜ裏切ったのか

前述の通り、明智光秀が何故裏切ったのかについては、判明していません。

史料がないため、今後も新たな史料が発見されない限り、この謎が解けることは無いでしょう。

その代わり、多くの人が様々な説を提唱しており、光秀が裏切った理由を推測しています。

その中からいくつかの説をご紹介したいと思います。

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本能寺の変の様々な説

明智光秀が織田信長を討った理由として提唱されている説をいくつかご紹介します。

野望説

単純に「明智光秀が天下を欲しがった」とする説です。

この説は、本能寺の変直後から存在しています。

当時の史料にも、「光秀は信長の恩を忘れ、天下を望んで謀反をした」というようなことが書かれています。

ですが、これは光秀側の史料ではなく、当時の人の推察ですので、本当に天下を手に入れようとして謀反を起こしたのかどうかは分かりません。

怨恨説

有名なのはこの怨恨説です。

つまり、「光秀は信長から数々の耐え難い仕打ちを強いられてきた、その恨みが積もりに積もって爆発した」という説です。

この説は、江戸から明治時代にかけて主流の説でした。

しかし、よくよく史料を見てみると、怨恨説は作り話をもとにしていることが多いことが判明します。

ただし、光秀が信長に憤りを覚えていたとする証拠も見つかってはいるため、怨恨説は、否定も肯定もできないという説です。

ノイローゼ説

過度なストレスが元になり、精神的に追い詰められて冷静な判断ができなくなって謀反を起こしたとする説です。

この説には特に根拠となる史料は存在しません。

信長の過度な要求に応え続けて精神的に疲弊してしまったのではないか、と後世の人が想像で提唱した説です。

今日の信長と光秀のイメージを考えると、ありえなくもないといえるかもしれません。

暴君討伐説

比叡山焼き討ち、長島願証寺の一向一揆など、あまりにもむごい所業を行った信長を止めるために討ち取ったとする説です。

これは、光秀が本能寺の変後に、各地の有力者に味方になるよう説得するため送った手紙の中に「信長父子の悪虐は天下の妨げ、討ち果たし候」と書かれていたとされることに基づきます。

黒幕説

黒幕説は、明智光秀を後ろで操っていた者がいたとする説です。

これは、山ほどあります。

朝廷説、足利義昭(室町幕府の最後の将軍)説、羽柴秀吉説、徳川家康説、毛利輝元説、千利休説、堺の商人説、イエズス会説、高野山説、森蘭丸説、織田信忠説など上げればきりがありません。

されに、これらの人々が連携して黒幕になっていたとする説も存在し、組み合わせを変えると更に多くの説が出来上がります。

これだけ膨れ上がった黒幕説ですが、致命的な欠陥があります。

それは、「どの黒幕説にも裏付けをする史料が全くない」ということです。

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まとめ

「本能寺の変」で、当時の最高権力者・織田信長が部下の明智光秀に討たれ、歴史は大きく動きました。

光秀はすぐに羽柴秀吉に討たれたため、その後は羽柴秀吉が天下を手に入れる流れが出来上がります。

光秀がなぜ信長を討ったのかについては、現在でも分かっておらず、新たな史料でも発見されない限り、この謎が解けることはないでしょう。

それでも、「分かっていない」ということは、「想像の幅が広い」ということでもあり、今日でも本能寺の変について様々な考察がされています。

ドラマや小説などで様々な形で本能寺の変が描かれますが、それはどれも間違っているとは言い切れません。

少し探してみると、膨大な数の考察がされていますので、ご自身の納得できる説を探してみるのも面白いかもしれません。

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