本能寺の変が起きると、まだ支配体制が整っていなかった旧武田氏の領土は権力の空白地帯となり、争いがおきました。
その領土を狙って徳川家康、北条氏政、上杉景勝らが戦いを繰り広げ、最終的に徳川と北条が和睦してこの争乱は収まります。
ですが、この和睦で徳川家康は真田昌幸との間に軋轢を残しています。
どんな約束がどんな不和を産んだのでしょう?
徳川と北条の約束とは?
旧武田領を巡る戦いは、織田信雄(信長の次男)織田信孝(信長の三男)らの勧告により、徳川と北条の和睦で決着しました。
このとき徳川家康の配下となっていた真田昌幸のゲリラ戦法により、北条軍は戦意を喪失しており、徳川軍は有利な状況でしたので、徳川にとって有利な条件で和睦が結ばれます。
その内容は、
- 「徳川家康の娘・督姫を北条氏直(北条氏政の子・北条氏5代目当主)に嫁がせる」
- 「甲斐(山梨県)・信濃(長野県)は徳川が、上野(群馬)は北条がそれぞれ取得し、相互に干渉しない」
というものでした。
徳川と真田の因縁
めでたく領土を広げた徳川ですが、面白くないのは真田昌幸です。
徳川配下として戦で活躍して武功をあげたにも関わらず、家康が勝手に上野国を北条に割譲してしまったからです。
上野国には真田昌幸が自力で手に入れた沼田城があります。
その沼田城までも北条に明け渡さなくてはならなくなり、代わりの領土がもらえるかどうかも分からない状態でした。
昌幸は家康に不信感を覚え、家康と敵対していた越後の上杉景勝と通じます。
そうとは知らない家康は、昌幸に上杉景勝への備えとして千曲川領域に城を作るように命じます。
この時造られた城が上田城です。
そんな中、家康と羽柴秀吉との間で小牧・長久手の戦いが勃発します。
家康の注意が秀吉に向いている隙に、昌幸は勝手に上野・沼田周辺に領土を広げました。
小牧・長久手の戦いを終えた家康は、北条から約束を守るように(※沼田を引き渡すように)迫られました。
これを受け、家康は昌幸に沼田を北条に引き渡すように迫ります。
しかし、昌幸は「沼田の代わりの領土を貰えない限りは引き渡さない」と拒否します。
これで徳川と真田は手切れとなり、真田は本格的に上杉景勝に従属しました。
上田合戦のきっかけ
きっかけとしては、先の徳川・北条の和睦の際の取り決めです。
家康が真田昌幸に断わらずに上野国を北条氏にあげてしまったこと、さらに代替地も用意しなかったことが真田との不和を産みました。
家康は、真田を少大名だとナメていたのかもしれませんが、それがあとになって手痛い目に会う原因になってしまいました。
真田昌幸が徳川家康の命令で、上杉への備えとして造った上田城は、上杉についた真田昌幸の本拠地となりました。
つまり、家康は敵の城を作る手助けをしてしまったことになります。
昌幸が上杉景勝についたことを知った家康は、真田昌幸討伐を決めます。
鳥居元忠・大久保忠世・平岩親吉らの重臣を派遣し、真田の2000人に対して7000人以上の兵で上田城を攻めました。
この戦で真田昌幸の手腕が光ります。
地の利を生かした戦法で、徳川軍を混乱に陥れ、撃退に成功しました。
徳川軍の犠牲は1300人、真田軍の死者は40人と真田軍の大勝利でした。
徳川軍は完全に撤退せず、近くにとどまりしばらく小競り合いを続けますが、そんななかで家康の懐刀・石川数正が豊臣秀吉の元へ出奔。
もはや戦どころではなくなった徳川軍は、上田から撤退することになりました。
まとめ
徳川と真田の因縁は、徳川家康と北条氏政が結んだ和議がきっかけです。
自分の配下として活躍した真田昌幸の領土を、ことわりなく北条へ差し出してしまった家康の「真田昌幸軽視」が原因ともいえます。
このときに沼田の代わりに別の領土と城を与えれば、のちの上田合戦で手痛い目にあわされることもなかったかもしれませんし、秀忠が関ケ原の戦いに間に合っていたかもしれません。
部下と言えどもないがしろにするのは良くない、という教訓が分かるいい事例でした。