大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第31回「諦めの悪い男」では、子供時代の第3代将軍の源実朝(千幡)と公暁(善哉)が登場します。
この後、成長した源実朝と公暁は「鎌倉時代最大の謎」と言われる事件を起こし、亡くなります。
彼らの最期はどのようなものだったのでしょうか?
源実朝の最期
源実朝は、甥の公暁に暗殺されて亡くなります。
この事件が「源頼朝の死」と並んで「鎌倉時代最大の謎」とされています。
事件の流れは以下のとおりです。
1218年12月2日、源実朝が武士として初めて「右大臣」に就任します。
その右大臣就任を祝って実朝は1219年1月27日、鶴岡八幡宮に拝賀します。
この日の鎌倉は60cmほど雪が積もっていたとされています。
夜になり参拝を終えた実朝は、御所へ帰るため石段を下りていました。
貴族が立ち並ぶ前に差し掛かったとき、頭巾をかぶった刺客が襲いかかってきました。
刺客は衣を踏んで実朝を転ばし、「親の仇はかく討つぞ」と叫んで実朝の首を斬りました。
その後、刺客は自分が公暁であることを名乗り「父の仇を討ち取ったり」と叫んで逃げたと言われます。
「承久記」では、実朝は公暁の一撃目を笏(しゃく:儀式のときなどに持つ細長い板)で防ぎましたが2の太刀で斬られ、最期は「広元やある」(※自分が死んでも大江広元がいるから大丈夫だ)と言って亡くなったとされています。
享年28でした。
実朝襲撃と同時に、刺客の3人~4人ほどの仲間が実朝のお共の者達を追い散らし、源仲章を討ち取ります。
源仲章は、直前になって役割を入れ替えた「北条義時」と間違えて斬られたとされています。
公暁の隠れいちょう
かつて鶴岡八幡宮には大きなイチョウの木がありました。
伝説によると、公暁はこの大きなイチョウの木の陰に隠れ、となりの大階段の13段目まで降りてきた実朝に襲いかかったとされています。
このイチョウは「公暁の隠れいちょう」と呼ばれ、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていました。
ですが、この伝説が知られるようになったのは江戸時代のことだとされています。
当時の史料には見られない話で、イチョウの樹齢を考えると鎌倉時代には人が隠れられる大きさではなかったともされていますので、真偽の程は不明です。
なお、「公暁の隠れいちょう」は2010年3月10日、強風のために倒れてしまいました。
残念ながら現在では大きなイチョウはありませんが、元の位置から少し離れた場所に根元が移植され、そこに若芽が育ってきています。
公暁の最期
公暁は三浦義村の放った追手に討ち取られます。
公暁は実朝を討ち取った後、後見人であった「備中阿闍梨(びっちゅうあじゃり)」の家に向かいました。
実朝の首を持ったまま、食事の間も離さなかったと伝わります。
そして公暁の乳母夫である「三浦義村」に使いを出しました。
「今こそ私が東国を治める大将軍となる。その準備をしろ。」というような内容でした。
これを聞いた三浦義村は、「すぐに迎えを送ります。」と返事をしたうえで、北条義時にこのことを伝えます。
北条義時と三浦義村は評議のうえ、「長尾定景」という武士を公暁討伐に差し向けました。
なかなか迎えの者が来ないことに業を煮やした公暁は、1人で三浦義村の館へ向かっていました。
その途中で追手に遭遇します。
その後、公暁は追手と戦いながら三浦義村邸までたどり着き、塀を乗り越えようとしたところを討ち取られて亡くなったとされています。
享年は20でした。
なぜ暗殺した?
公暁が源実朝を暗殺したのは、「父の仇を取りたかったから」だとされています。
ですが、公暁の父・源頼家は源実朝が殺したわけではありません。
源頼家を暗殺したのは北条の手の者だとされていますし、頼家が亡くなったとき実朝はまだ13歳でした。
15歳のときには公暁を猶子(※養子のようなもの)にもしています。
こういった背景から「公暁は誰かにそそのかされて実朝を暗殺したのではないか?」と考える説がたくさん存在します。
当時は権力争いで血なまぐさい時代であったため、黒幕候補とされる人物が何人もいます。
それに加えて「公暁自身が本当に実朝を恨んでいた可能性」も捨てきれないため、この事件は鎌倉時代最大のミステリーとなっています。
黒幕説については別記事にまとめてありますので、詳しくは関連記事をご覧ください。
関連記事:源実朝暗殺の黒幕は?