大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に大江広元(おおえのひろもと)という官僚が登場します。
栗原英雄さん演じるこの人物は、源頼朝の知恵袋として活躍しています。
「十三人の合議制」のメンバーのうち一人となったこの大江広元は、どのような人生を歩むのでしょう?
大江広元の最期はどうなる?
大江広元は、1225年に78歳で亡くなったとされています。
死因は不明ですが、亡くなる数年前に重病を患っていたとされているため、おそらく病死であると思われます。
ドラマでは、源頼朝の相談役・知恵袋として描かれていますが、実際の大江広元も鎌倉幕府のナンバー2のような立場として活躍していました。
鎌倉幕府の政策として名高い「守護・地頭」も、この大江広元の献策によるものとされています。
また、源頼朝の実弟の源範頼、舅の北条時政よりも官位が高く、鎌倉幕府内では源頼朝に継ぐ官位を持っていました。
頼朝死後も、実質上の最高権力者となった北条義時よりも官位は上で、名目上の鎌倉幕府のナンバー2はこの大江広元でした。
頼朝の死後は、「十三人の合議制」のメンバーにも加わります。
鎌倉幕府のなかで権力闘争が起こると、大江広元は北条政子・北条義時と協力することが多くなります。
広元の嫡男・大江親広は北条義時の娘と結婚していますし、北条義時とは近い関係にありました。
幕府VS朝廷の戦いで、今後の武家政権の帰趨を決めたと言われる「承久の乱」においても、幕府軍を勝利に導いた功労者とされています。
子孫には戦国大名「毛利元就」らも
大江広元にはもう一つ特筆すべき事項があります。
それは、子孫に「毛利元就」がいるという点です。
毛利元就は「三本の矢」の逸話で有名な、中国地方を治めた戦国大名です。
(その毛利元就の子孫は、長州藩の藩主として江戸時代を生きることになります。)
大江広元の四男に「毛利季光(もうりすえみつ)」という人物がいました。
この季光が「承久の乱」で手柄をあげて「安芸国吉田荘(広島県安芸高田市)」の地頭となります。
しかし、その後、毛利一族は北条氏と対立することになり、季光も自刃。
一族の大半が討ち死にしてしまったものの、季光の四男「毛利経光(もうりつねみつ)」だけは越後にいたため無事でした。
この時、毛利の所領のうち主なものは没収されたものの、「越後の領地」と「安芸国吉田荘」の領有は許されています。
そして、毛利経光の四男「毛利時親(もうりときちか)」が安芸国吉田荘の領地を継いでいます。
この毛利時親が「安芸毛利氏」の祖とされ、その安芸毛利氏から毛利元就が出ています。
ややこしいのでまとめると、大江広元の「四男の四男の四男」が毛利時親で、彼が安芸毛利氏の祖。
つまり、毛利時親は大江広元から見ると「ひ孫」にあたります。
その毛利時親の子孫が毛利元就という関係性です。