【どうする家康】伊賀越えのメンバーは?服部半蔵の活躍は?

【どうする家康】伊賀越えのメンバーは?服部半蔵の活躍は? 映画・ドラマ
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1582年6月2日、織田信長が明智光秀に討たれる「本能寺の変」という歴史的大事件が起こりました。

この時、信長の同盟者であった徳川家康も危機に陥ります。

その危機を逃れるため、家康は、追手から伊賀国(三重県西部)を通って本拠地の三河まで逃げたため、この出来事は俗に「神君伊賀越え」と呼ばれています。

(※のちに家康は「東照大権現」と呼ばれ神格化されたため、「“神君”伊賀越え」と言われます。)

この記事では、その伊賀越えのことを詳しくご紹介と思います。

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なぜ家康が逃げなければならなかった?

まずは、素朴な疑問から。

なぜ家康は、本能寺の変後逃げなければならなかったのか?」ということについてです。

当時、徳川家康は織田信長の同盟者(もしくはこの時はすでに家臣)という立場でした。

それも20年来の長きにわたる同盟者です。

織田信長を討った直後の明智光秀としては、信長と仲の良い家康の存在は邪魔にしか見えなかったでしょう。

さすがに家康を味方に引き入れることは難しいし、下手をすれば仇討ちをされかねません。

しかもこのとき、家康は少人数しか連れておらず、軍に襲われればひとたまりもない状態でした。

光秀にとっては「敵を減らす絶好のチャンス」、家康にとっては「絶体絶命のピンチ」です。

現にこのとき家康はすでにあきらめ、織田信長の後を追って切腹しようとしたと伝わります。

しかし、本多忠勝らに説得され、イチかバチか本拠地・三河に帰ることを決めました。

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本能寺の変のとき、家康はどこにいた?

本能寺の変が起きた当時、徳川家康は堺を遊覧中でした。

そもそもこの頃、中国の毛利攻めをしていた羽柴秀吉が、毛利にトドメを刺すために織田信長に援軍を要請し、信長はその要請に答えて中国地方へ向かうところでした。

家康もその出陣に加わる予定だったとされています。

そんな中で、先に中国攻めに出発していたはずの明智光秀が織田信長の泊まる本能寺を攻撃。

織田信長は討たれます。

この報告を聞いた家康は絶望しますが、家臣らの説得で三河国へ戻ることを決意。

服部半蔵の進言により、伊賀国を越えて三河への逃亡劇が始まります。

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伊賀越えのメンバー

神君伊賀越えのメンバーは、徳川家康とその家臣の他、堺案内役をしていた織田家家臣・長谷川秀一、西尾吉次、それと家康とともに上洛していた穴山信君(梅雪)の一行です。

(このうち、穴山梅雪が途中で落ち武者狩りに会い、討ち取られています。)

伊賀越えに同行した家康の家臣は以下のメンバーだとされています。

  • 酒井忠次
  • 石川数正
  • 本多忠勝
  • 井伊直政
  • 榊原康政
  • 本多正盛
  • 石川康通
  • 服部正成(※2代目服部半蔵)
  • 高木広正
  • 大久保忠隣
  • 菅沼定政
  • 久野宗朝
  • 本多信俊
  • 阿部正勝
  • 牧野康成
  • 三宅正次
  • 高力清長
  • 大久保忠佐
  • 渡辺守綱
  • 森川氏俊
  • 酒井重勝
  • 多田三吉
  • 花井吉高
  • 鳥居忠政
  • 内藤新五郎
  • 都筑亀蔵
  • 松平玄成
  • 菅沼定利
  • 永井直勝
  • 永田瀬兵衛
  • 松下光綱
  • 都筑長三郎
  • 青木長三郎
  • 三浦正次(←※当時まだ生まれていないため、誤りであると思われる)

以上、徳川家の重臣勢ぞろいです。

当時の家康の懐刀・石川数正も、徳川四天王もみんな揃っています。

彼らは堺に遊びに来ていました。

当然、戦の準備はしていません。

重要人物が丸腰で一箇所に集まっている

そんな状態で、突如として武装した兵に狙われることになったため、徳川家にとっては、存亡の危機にもなりかねない危険な状態でした。

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なぜ伊賀越え?

よく言われているのは、

「伊賀は道が険しいため、そこを通るとは思っておらず、明智の兵が警戒していなかった」

「山道のため、敵に見つかりにくい」

「同行者の中に伊賀出身の服部半蔵らがいたため、道案内や根回しがしやすかった」

という理由があります。

ただし、一時的な史料が極めて少ないため、実際はなぜ「伊賀越え」を選んだのかは分かっておらず、そもそも本当に「伊賀越え」のルートを通ったのかということについても疑問が持たれています。

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伊賀越えは嘘?服部半蔵の活躍は?

家康は、本能寺の変が起きた6月2日に堺を出発し、6月4日深夜から6月5日の未明にかけて三河に到着しています。

通説では「伊賀国を越えて三河に入った」と言われていますが、実はハッキリとしたルートは分かっておらず、家康が通った道に関しては様々な説が存在します。

この逃亡劇で服部半蔵ら伊賀出身者が家康を助け、後に江戸幕府で御庭番として伊賀忍者が召し抱えられたという逸話は有名ですが、御庭番を作ったのは8代将軍・徳川吉宗です。

江戸時代初期は、伊賀者の待遇はそれほど厚いものではなかったとされています。

また、本能寺の変が起こる少し前、織田信長は伊賀国を徹底的に攻めて、伊賀の全人口9万人のうち3分の1にあたる3万人を殺害しています。

伊賀国の人にとって、織田家は憎き仇です。

その同盟者・徳川家康に対して敵意が全く無かったとは考えにくいでしょう。

以上の理由から、実は伊賀は通っていない、もしくは少しだけ踏み入れただけで、ほとんどは大和や近江を通ったのではないかとも言われています。

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まとめ

本能寺の変で織田信長を討った明智光秀は、近くにいた信長の同盟者・徳川家康を狙いました。

家康は堺を遊覧中で、完全に無防備な状態で命を狙われます。

お供には、酒井忠次や本多忠勝など徳川家の重臣が勢ぞろいしていました。

万が一、襲撃を受ければ徳川家が滅びてしまうかもしれません。

この絶体絶命のピンチを脱するために家康が取った行動が「伊賀越え」だとされています。

ただし、実際どのルートを通って三河まで帰ったのかについては、今も詳しいことが分かっていません。

詳しいことが分からないということは、想像の幅が広がります。

いろんなドラマや小説で「神君伊賀越え」が描かれているため、見比べてみるのもおもしろいかもしれません。

個人的には「真田丸」の「ただひたすらに力ずくの伊賀越え」をおすすめします。

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