服部半蔵は忍者じゃないの?ライバルと子孫・最期と死因について

服部半蔵は忍者じゃないの?ライバルと子孫・最期と死因について 映画・ドラマ
スポンサーリンク

大河ドラマ「どうする家康」で山田孝之さんが演じる服部半蔵という人物がいます。

見た感じカッコよくて頼れそうなのに、どこか抜けたところがあり、毎回必ずなにか失敗するという愛すべきキャラクターです。

この服部半蔵という人物が、実際はどのような人でどのような人生を送ったのか、まとめてみたいと思います。

スポンサーリンク

服部半蔵は忍者じゃない?

まず、前提として「服部半蔵」という名前の人物はたくさんいます。

これは、「松平家に仕えた服部家の歴代当主」が代々同じ「半蔵」という通称を名乗る習わしがあったためです。

そのため、初代服部半蔵、2代目服部半蔵、3代目服部半蔵…と続き、最後は12代目まで続きます。

しかも、一時的に「半蔵」の名前を承継した者もいるため、実際は12人以上の「服部半蔵」が歴史上に名を残しています。

この12人以上の服部半蔵のうち、忍者だったのは初代の服部半蔵(保長)だけと言われています。

世間でよく知られているのは2代目の服部半蔵(正成)で、「どうする家康」で山田孝之さんが演じているのも2代目服部半蔵です。

2代目服部半蔵は、槍の名手で、甲冑を着て足軽を率いた武将だとされています。

ただ、いくつかの戦で、伊賀者や甲賀者と行動を共にしたり、指揮官として忍びを放ったりしていますので、全く忍者の仕事をしていなかったわけではないようです。

スポンサーリンク

服部半蔵の最期と死因

服部半蔵がたくさんいてややこしいので、ここから先は服部半蔵正成(2代目)に絞って記述を進めます。

服部半蔵(2代目)は、関ヶ原の戦いより3年前、1597年に亡くなりました。

死因は病死だとされていますが、なんの病気かは現在も不明です。

半蔵は豊臣秀吉の1度目の朝鮮出兵に従軍した後に引退。

出家して江戸に庵をたてました。

出家した後は、家康の長男・松平信康を菩提を弔って過ごしたと言われています。

スポンサーリンク

服部半蔵のライバルって誰?

「伊賀忍者のライバルといえば甲賀忍者」というイメージがあるかもしれませんが、これは後世に出来た創作の影響です。

「忍者ハットリくん」など服部半蔵をモデルとした有名な作品には、甲賀忍者のライバルがでてくるため、「服部半蔵には実在の甲賀忍者のライバルがいたのではないか」と思うかもしれません。

ですが、残念ながら服部半蔵のライバルにあたる甲賀忍者がいたという記録はありません。

強いて言うなら、講談などの作り話に登場する猿飛佐助がそれに近いかもしれません。

猿飛佐助は甲賀流忍術の開祖・戸沢白雲斎の弟子だったとされています。

そして、猿飛佐助にはモデルとなった実在の人物がいたとの説が存在します。

仮に猿飛佐助のモデルとなった人物が実在し、その人物が真田信繁(幸村)に仕えていたとすれば、たしかに伊賀(服部半蔵)と甲賀(猿飛佐助のモデルとなった人:三雲佐助賢春?)に別れた宿敵同士(徳川と真田)だったと言えるかもしれません。

(※なお、真田信繁と徳川家康が戦った「大阪夏の陣」に参戦した服部半蔵は3代目正就です。)

ただし、実際は地理的にも近く、忍者の里であるという共通点をもつ伊賀と甲賀は密接な関係にあり、同盟・連帯をすることが多かったとされています。

もちろん、時代によっては対立することもありましたが、少なくとも今日のイメージのように「宿敵」という関係性ではありませんでした。

スポンサーリンク

服部半蔵の子孫

服部半蔵(2代目・正成)の死後、3代目の服部半蔵(正就)は他の伊賀衆との軋轢などがきっかけとなり、改易されてしまいます。

大阪夏の陣で汚名返上を試みますが、この戦で行方不明となってしまいます。

その後、4代目服部半蔵(正重)は、越後村上藩(新潟県)に召し抱えられ、村上藩が一時廃藩となったあとは桑名藩(三重県)に召し抱えられます。

そこで、その後の代々の服部半蔵は、桑名藩の家老として仕え続けました。

これが明治時代まで続きます。

最後の服部半蔵(12代目・正義)は、旧幕府軍として桑名藩を率い、戊辰戦争に参戦しています。

戊辰戦争では新政府軍と戦ったものの降伏。

後に許されて三重県の要職につきました。

その子供達は政治家など公職についているわけではないため、どうなっているのかは不明ですが、12代目服部半蔵正義には奥さんもいたそうなので、現在もどこかで服部半蔵の子孫が生きている可能性は大いにあります。

スポンサーリンク

まとめ

  • 「服部半蔵」は何人もいて、そのうち忍者は初代だけ
  • いちばん有名なのは2代目服部半蔵だが、彼は忍者というより槍使いとして有名(鬼半蔵)
  • 伊賀出身の服部半蔵だが、甲賀者と協力することも多々あった(伊賀と甲賀は別に仲が悪くなかった)
  • 少なくとも「服部半蔵」の子孫は明治時代まで続いており、その後も公人ではないものの、家系は続いている可能性が高い

「どうする家康」で(山田)服部半蔵が何度も「忍者ではありません」と言っているのは本当のことだったようです。

それにしてもこのドラマの服部半蔵は、清々しいくらい裏目裏目に失敗し続けるキャラクターなので、今後の活躍が楽しみです。

タイトルとURLをコピーしました