於義丸(おぎまる・おぎい)と勝千代(かつちよ)は誰のこと?その後はどうなった?

於義丸(おぎまる)と勝千代(かつちよ)は誰のこと?その後はどうなった? 映画・ドラマ
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大河ドラマ「どうする家康」で、小牧・長久手の戦いが起こると、和議の人質として家康の次男「於義丸(おぎまる)」が秀吉の養子に出されます。

このとき、於義丸の世話役として石川数正の子・勝千代(かつちよ)が同行しました。

於義丸・勝千代とは一体誰のことなのでしょう?

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於義丸(おぎまる)とは誰?

於義丸(おぎまる)とは、後の結城秀康(ゆうきひでやす)のことです。

徳川家康の次男として生まれ、のちに豊臣秀吉の養子となった人物です。

大河ドラマ「どうする家康」で、元瀬名の世話係の「お万」という女性が家康の子を宿しました。

その時の子供がこの於義丸(=結城秀康)です。

彼はのちに「松平」の姓を名乗り、越前松平家の祖となりました。

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勝千代(かつちよ)とは誰?

勝千代(かつちよ)とは、石川泰勝(いしかわやすかつ)のことです。

家康の(元)腹心・石川数正の次男です。

大河ドラマで描かれたとおり、於義丸が秀吉の養子となる際に同行して於義丸に仕えています。

成長した後、関ヶ原の戦いでは徳川家康の東軍に味方します。

勝千代(石川泰勝)は、真田昌幸の上田城攻略に参加しました。

が、兄が領地を隠匿して改易されると、それに連座して改易処分を受けます。

大坂夏の陣で豊臣方につき、真田信繁(幸村)とともに戦って討ち死にしたと伝わります。

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於義丸は双子?

於義丸(結城秀康)は双子だったという話が存在します。

ですが、そのもう一人の双子は生まれた直後に亡くなったとされています。

於義丸は瀬名(築山殿)が承認しなかったため、冷遇されていたと言われています。

そのため、家康も瀬名が存命中は認知できておらず、於義丸が3歳のときに初めて父と対面したと伝わります。

そして、冷遇されていた理由の1つに「双子だったから」というものがあります。

昔は双子が忌み嫌われるという文化がありました。

その理由には様々な説がありますが、「一度に複数の子供を生むのは犬などの動物(畜生)みたいだから」という説が有力なようです。

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結城秀康は特別扱いされていた?

子供時代は冷遇されていた結城秀康ですが、実は家康の後継者候補として期待されていたともされています。

正妻(瀬名)に承認されていなかったとはいえ、結城秀康は、徳川家康の次男であることに間違いはありません。

長男の松平信康が切腹した時点で、家康の後継者は結城秀康のはずでした。

しかし、母親の身分の違いから、結局は三男・徳川秀忠が家康の跡を継ぎます。

結城秀康は、武将としての器量が一流だったと言われ、家康が後継者を誰にするべきか尋ねると、懐刀の本多正信はこの結城秀康を推薦しています。

それほどの武将だったため、どんどん出世し、最終的に越前68万石を得るほど優遇されたのも当然といえば当然だったのかもしれません。

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結城秀康と徳川秀忠の仲は?

結城秀康と徳川秀忠の仲はそれほど悪くなかったものと思われます。

2人共徳川家康の後継者候補でした。

しかし、一度もそのことについて争った形跡がありません。

秀忠が後継者に決まったとき、秀康は伏見城代という立場でした。

秀康はその知らせを受けると「残念だ」という本音は漏らしているものの、秀忠に対して敬意をもった対応をしています。

1つ逸話があって、あるとき、江戸城で2人が会ったとき「どちらが先に門をくぐるか」ということになりました。

秀康は「主君が先にくぐるべきだ」と秀忠を尊重し、秀忠は「主君・家臣関係なく兄が先にくぐるべきだ」と秀康を尊重したと伝わります。

結局この時は、2人仲良く並んで門をくぐったそうです。

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まとめ

於義丸(おぎまる)は結城秀康のこと。

勝千代(かつちよ)は石川泰勝のこと。

完全な余談ですが、武田信玄の幼名も「勝千代」です。

結城秀康は徳川家康の次男で、優秀だったため、家康の後継者候補とも言われました。

ですが、「母親の身分」「双子だったこと」などの理由から後継者となることはありませんでした。

実際に後継者となった家康の三男・徳川秀忠とは仲は悪くなかったようです。

また、養子になった時点で子供がいなかった豊臣秀吉からは可愛がられたと言われます。

功績により、越前68万石を与えられるという実績も残しています。

徳川幕府の第2代将軍として歴史に名を残すことは出来ませんでしたが、幼少期に冷遇されてきた「於義丸」は、徳川幕府を支える礎となりました。

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