大河ドラマ「どうする家康」では、井伊直政が武田軍を引き継いで赤備えの軍を組織したことになっています。
「武田軍隊最強部隊の山県昌景」「日の本一の兵・真田信繁(幸村)」「赤鬼・井伊直政」と、歴史に名を残す猛将は「赤備え(※武具を赤色で統一すること)」を用いることがありました。
当時の赤色の鎧は、「辰砂(しんしゃ)」という貴重で高価な鉱物を原料としていました。
他の色の鎧と比べて用意できる数が少ないため、「赤備え」は精鋭部隊にあてられる場合が多かったとされています。
では、井伊直政が赤備えの兵を揃えたルーツはなんだったのでしょうか?
井伊直政の「赤備え」は武田を引き継いだから?
井伊直政が赤備えを採用した理由は、まさに武田軍の最強部隊・山県昌景の赤備えを継承したからです。
武田家が滅亡した後、「本能寺の変後の武田領争奪戦」を経て武田家の所領を家康が獲得します。
このとき、家康は武田の旧臣たちを井伊直政の配下とします。
その武田遺臣の中には、山県昌景の部下もいました。
そこで、井伊直政は山県昌景にあやかり、自身の部隊を赤備えで揃えました。
その後の「小牧・長久手の戦い」で先方を務めた直政の赤備えが活躍したため、以降、直政は「井伊の赤鬼」と呼ばれるようになりました。
赤備えのルーツは?
赤備えを最初に組織して率いた武将は、飯富虎昌(おぶとらまさ)だとされています。
山県昌景のお兄さんです。
飯富虎昌は「猛虎」と呼ばれる猛将で、騎兵のみの部隊を「赤備え」として編成しました。
もともと赤色の武具は、多くの首をあげた者に大名が与えるものでした。
そこで、虎昌は「自身で手柄をあげて稼ぐしかない次男(※多くの首をあげて赤色の武具をもらうくらいでないと生きていけない者)」を集めて、この赤備えの部隊を作ったと言われます。
その後、飯富虎昌は信玄の長男・武田義信の謀反に加わったとして切腹。
弟の山県昌景が赤備えを引き継ぎました。
井伊直政の最期はどうなる?
井伊直政は、関ケ原の戦いの1年半後に亡くなりました。
享年42。
死因は関ヶ原の戦いで負った傷による感染症だとされています。
関ヶ原の戦いで、井伊直政は本多忠勝とともに東軍の中心として指揮をします。
決戦終盤になると、退却する島津勢を追撃。
ですが、あまりにも速すぎたため、直政1人が島津軍の大将・島津義弘の目前まで迫ります。
そこを狙撃され、弾が脚に当たって落馬してしまいました。
大怪我だったらしく、当時は抗生物質もないため感染症となり亡くなってしまったとされます。
まとめ
「井伊の赤鬼」のルーツは、武田の赤備えでした。
武田領を獲得した家康が、武田の遺臣を井伊直政配下としたことをきっかけとして、直政は赤備えを組織します。
井伊直政は軍律に厳しく、部下に恐れられていたとされています。
ですが家康は、そんな直政に期待して、徳川家を支える軍隊を作るために、精鋭ぞろいだった旧武田遺臣を直政に託したと言われています。
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