大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝死後に2代目鎌倉殿となった源頼家を支えるため、「十三人の合議制」が始まりました。
ところが、制度が始まってすぐに脱落者が続出しています。
そこで、「13人のうち誰がいつ脱落していくのか」という情報をまとめました。
なお、今後のドラマのネタバレとなる情報を含みますのでご注意下さい。
目次
「十三人の合議制」最後まで残るのは?
十三人の合議制のメンバーのうち、最後まで残って権力を手にするのは主人公である北条義時です。
北条義時は主人公に選ばれているので、当たり前といえば当たり前かもしれません。
その他、中原親能・二階堂行政・足立遠元・八田知家・三善康信・大江広元は、権力闘争によって命を落とすことなく十三人の合議制崩壊以降も幕府に仕えています。
では、その他のメンバーはどのように脱落していったのでしょうか?
「13人」の死亡・脱落の順番と最期
- 中原親能
- 梶原景時
- 三浦義澄
- 安達盛長
- 比企能員
- 北条時政
- 二階堂行政
- 足立遠元
- 和田義盛
- 八田知家
- 三善康信
- 大江広元
- 北条義時
実際は4番の安達盛長が亡くなった時点で「十三人の合議制」は崩壊しています。
ですので、その後は脱落云々の話ではないですが、13人のメンバーが追放されていなくなったり、亡くなったりしていく順番はおおよそこのようなものです。
中原親能
1199年、源頼朝の次女・三幡が病死します。
中原親能の妻は三幡の乳母でした。
大きな悲しみを負ったようで、三幡の死をきっかけに中原親能は出家します。
ドラマでは出家によって鎌倉を離れたとされていましたが、実際どうだったのかは分かっていません。
親能はその後も鎌倉と朝廷を結ぶ外交官的な役割を果たしていたので、少なくとも出家を期に鎌倉を離れていなくなったわけではないようです。
梶原景時
13人のうち、一番最初に亡くなったのは梶原景時です。
66名もの御家人の署名によって鎌倉を追放され、後に討ち取られてなくなります。
詳しくはこちら ↓
関連記事:梶原景時の変
三浦義澄
梶原景時が討たれたわずか3日後に亡くなっています。
死因は病死だとされています。
享年は74でした。
安達盛長
三浦義澄が亡くなってから約3ヶ月後、安達盛長も亡くなります。
これにより十三人の合議制は解体しました。
比企能員
北条と比企の権力争い、比企能員の変(比企の乱)で北条時政に謀殺されています。
下手をすると次の時代の最高権力者となっていたかも知れない比企一族が、この事件によって滅びています。
詳しくは関連記事を御覧ください。
関連記事:比企の乱
北条時政
比企一族を倒し、北条時政は初代執権となりました。
当時の最高権力者です。
しかし、嫡男とされていた北条政範を亡くし、それから畠山重忠の乱→牧氏事件という事件が起こります。
その中で息子の北条義時と対立して鎌倉を追放され隠居を余儀なくされました。
関連記事:北条政範とは?、畠山重忠の乱・牧氏の変
二階堂行政
源実朝が第3代将軍に就任したころ、二階堂行政の名前が政所の署名に見られなくなりました。
おそらくこの頃に職務を離れたか亡くなったものと見られます。
没年などの詳しいことは記録が残っていないため不明です。
足立遠元
牧氏事件(1205年)の後、1207年に行われた「闘鶏会」に参加したとの記録があります。
ですが、足立遠元に関する記載はそれが最後で、以降名前が出てきません。
このころ既に70代という当時では高齢に達していたので、おそらくこの年代ごろに亡くなったものとみられています。
和田義盛
1213年、「和田合戦」が起こります。
和田義盛はこの合戦の大将で、北条義時と真っ向から対立しました。
結果は北条義時率いる幕府軍の勝利。
和田義盛は討ち取られてしまいます。
享年67でした。
関連記事:和田合戦
八田知家
十三人の合議制が崩壊した後も頼家以下歴代将軍に仕えました。
1218年に亡くなったとされています。
享年は77でした。
三善康信
三善康信も十三人の合議制崩壊後も将軍たちに仕えます。
承久の乱が起こると、病気の身でありながら会議に参加。
即時出撃の策に賛成しています。
承久の乱が終わると、その年に静かに息を引き取りました。
享年82だとされています。
大江広元
源頼朝の死後、大江広元は北条政子・北条義時と協力して幕府を支えます。
殺伐とした13人メンバーの中で、大江広元は北条義時の仲間といえる存在です。
承久の乱では、北条政子と協調して主戦論を唱えます。
結果、幕府軍は大勝利。
承久の乱勝利の功労者の一人と言われています。
北条義時が亡くなった次の年、1225年に亡くなっています。
北条義時
頼朝死後の権力闘争が激化してくると次第に頭角をあらわします。
北条一族最大のライバルである比企一族を滅ぼすと、父・時政が最高権力者となります。
その父・時政と対立し、最終的に義時が2代目執権となり大きな権力を手にします。
承久の乱では、後鳥羽上皇に名指しで宣旨を出されます。
朝敵となりますが、北条政子らの活躍もあって幕府軍が勝利。
この戦によって朝廷と幕府の地位関係は逆転。
以降の武家政権存続に大きな足跡を残しました。
乱の後も精力的に働きますが、1224年に急死。
死因は脚気(かっけ)とされていますが、最高権力者のあまりにも突然の最期に「妻による毒殺説」・「近習による刺殺説」などがささやかれています。
関連記事:北条義時の最期