梶原景時の最期はどうなる?義経への讒言で13人最初の脱落者に?

梶原景時 映画・ドラマ
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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で中村獅童さん演じる梶原景時は最後にどうなったのでしょうか?

ドラマの梶原景時は常にクールで、自由で感情の起伏の激しい「源義経」とは対極的な存在として描かれています。

二人の間の対立にも少し触れ、簡単に彼の生涯を見ていきたいと思います。

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梶原景時の最期

梶原景時は、謹慎を言い渡され鎌倉を追放された後に、京都に上ろうとしたところを偶然発見され戦闘になり、最期は自害したと伝わっています。

簡単に経緯を説明します。

まず、梶原景時は「目付役」でした。

御家人たちを見張り、不祥事を主君に告げるという役割です。

これは主君の信頼の証であるものの、同僚である御家人たちからは恨みを買いやすい立場です。

この立場が災いしたこともあって、66人もの御家人が連名で梶原景時を糾弾し、将軍にすらそれを庇うことができず、景時は所領の相模国(神奈川県)にて謹慎させられることになります。

その直後に一族を率いて京都へ向かおうとしたところ、駿河国(静岡県)で吉川友兼という武士に見つかり戦闘になります。

一族のほとんどがその時に討たれ、景時自身も自害して果てます。

景時が京都へ向かった理由は諸説あり、「京都で士官するつもりだった」「九州の兵を集めて反乱をおこすつもりだった」などいろいろな推測がされています。

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13人のうち最初の脱落者

源頼朝が亡くなった後、二代将軍となった源頼家は独裁政治を行い、御家人たちから疎まれます。

頼家の権力が「十三人の合議制」によって奪われた際、梶原景時は頼家の一の郎党(一番の部下)としてこの13人のうちの一人となります。

しかし、前述の御家人による弾劾によって、梶原景時が13人のうちの最初の脱落者となってしまいます。

もともと他の御家人から恨みを買いやすい立場にいたものの、その御家人たちの不満に火を付けたのは北条時政の娘「阿波局」だったとされ、その直後に北条家が大きな権力を手に入れることになるため、近年ではこの梶原景時の排斥が北条一族による企みであったのではないかともされています。

大河ドラマで描かれるときは、主人公北条義時のダークな一面が見られるかもしれません。

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源義経との対立・讒言の真相

ところで梶原景時といえば、源義経と対立したことで有名な人物でもあります。

大河ドラマでもケンカしたりしてますが、実際のところはどうだったのでしょう?

どうも対立は本当だったようです。

一の谷の戦いのときには、源義経に梶原景時が、源範頼に土肥実平が侍大将として配下につきましたが、義経と景時の仲が悪く、配置を交換したとされています。

壇ノ浦の戦い直前の軍議では、義経の突飛な作戦に対し、景時は「総大将が先陣を切るなど聞いたことがない。あなたは大将の器ではない。」と発言し、両陣営が斬りあう寸前までもめたと言われます。

壇ノ浦の戦いが終わった後、景時は頼朝に対し、義経を弾劾する手紙を送っています。

この讒言が頼朝と義経の兄弟が対立する原因となったということで、梶原景時は「民衆から人気のある義経」の敵役として長いあいだ悪人のイメージを持たれてきました。

ですが、当時、源義経の独断とわがままに恨みを持っていたのは景時だけではありません。

彼は立場上、代表して頼朝に報告したにすぎません。

対立自体は事実ですが、「義経を陥れようとして讒言した」というのは少し事実と違うものと思われます。

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