【鎌倉殿の13人】北条義時の最期は?毒殺説・刺殺説の存在

北条義時 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条義時が主人公となっています。

鎌倉時代初期の権力闘争に義時が勝ち上がっていく様子が描かれます。

では、ドラマの主人公・北条義時の最期はどのようなものだったのでしょうか?

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北条義時の最期

北条義時は1224年6月13日に急死しました。

享年は62です。

死因は衝心脚気(しょうしんかっけ)とされています。

これは「吾妻鏡」に記されています。

衝心脚気はビタミンB1の欠乏で心不全などが起こる病気で、現在では非常に稀な病気です。

しかし、義時は亡くなる直前まで精力的に働いており、権力の絶頂のなかの62歳という年齢での急死であったため、様々な憶測が流れています。

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毒殺説

北条義時は妻である「伊賀の方」(※ドラマでは「のえ」)に毒殺されたとする説があります。

その説の根拠となる「明月記」にはこのようなエピソードが書かれています。

後鳥羽上皇の側近に尊長(そんちょう)という僧がいました。

尊長は北条義時の娘婿「一条実雅」の実兄です。

(※一条実雅は義時の死亡後に起きた「伊賀氏の変」という事件で、将軍候補として擁立された人物です。)

この尊長は承久の乱の首謀者の一人でもありました。

幕府軍との戦闘にも参加していましたが、朝廷側の敗色が濃くなると、逃亡し行方不明となります。

しかしその6年後、京で謀反を企んでいたところを発見され、六波羅探題に捕縛されます。

捕縛後、尋問の苦痛に耐えかねた尊長は次のような言葉を残したとされています。

尊長:「早く首を切れ。さもなければ義時の妻が義時に飲ませた薬で早く自分を殺せ。」

これを聞いて驚いた六波羅探題の武士たちが問い詰めると

「今から死ぬ身であるのに嘘など言わん。」

と返したそうです。

これは義時の死亡から3年後のできごとでした。

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刺殺説

「保暦間記」という史料に見られる説です。

保暦間記は「元から応までのした書物」というのが名前の由来となっており、「吾妻鏡」の記述が終わった後の時代に関する貴重な史料です。

なお、「和田合戦」、「承久の乱」、「宝治合戦」、「二月騒動」、「霜月騒動」などの事件名は、保暦間記の記載が由来となっています。

この史料によると、「北条義時は近習の小侍に害された」というような記述があり、伊賀の方の意向を受けた近習によって刺殺されたとする説の根拠となっています。

また、「害された」と記されているため刺殺ではなく毒殺された可能性もあるとされています。

そうなると伊賀の方が用意した毒を近習が義時に飲ませたことになり、上記の毒殺説の実行犯が近習の小侍だったということで2つの説が重なります。

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