徳川家康の側近・本多正信の最期と死因・その後の子孫がどうなったかについてまとめます。
本多正信の最期
本多正信は1616年6月に亡くなります。
享年は79。
大阪夏の陣で豊臣が滅びた翌年、4月に亡くなった家康の後を追うように亡くなりました。
なお、「本多正信の墓」は現在どこなのかはっきり分かっておりません。
これは、正信が信仰していた当時の浄土真宗が、お墓や遺骨へのこだわりが強くなかったためだと言われています。
本多正信の死因
本多正信の死因ははっきりしていませんが、年齢を考えると病死もしくは老衰だと考えられます。
少なくとも戦で討ち取られたり暗殺されたわけではなく、穏やかに亡くなったようです。
正信は、家康が亡くなった後になってようやく家督を嫡男・正純に譲って隠居しています。
亡くなる数ヶ月前まで現役で徳川を支え続けました。
本多正信の子孫
家康の側近として活躍した本多正信ですが、その跡を継いだ本多正純や子孫たちが繁栄したかと言われれば、そうではありませんでした。
正信の息子・本多正純は、2代将軍・徳川秀忠の側近となり、知行を加増をされます。
しかし、正純自身が武功を立てたわけでもないのに、加増されたり出世したりというのを見て、周囲の者たちは正純に恨みを持つようになります。
結果的にその周囲の者たちの恨みが爆発して糾弾され、正純は失脚。
出羽国へ流罪となり、幽閉されてしまいます。
配流先の出雲の国で、正純と正純の長男・正勝は生涯を閉じます。
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その後、正純の孫にあたる正好が安藤直政という旗本に招かれ、武蔵野国に住むようになります。
そして名前を「和田」とあらため、家臣に。
以後、和田家は枝分かれしますが、そのうちの1つが「木村」という氏を称し、旗本・安藤家の重臣となりました。
幕末から明治を生きた「木村正英(きむらまさひで)」という安藤家用人は、本多正信の子孫にあたります。
まとめ
本多正信は家康が亡くなった2ヶ月ほど後に亡くなりました。
おそらくは病死か老衰で亡くなったものと思われます。
正信の子・正純は2代将軍秀忠の側近にもなりましたが、他の家臣たちの恨みを買って失脚。
それ以降、幕府の中枢に本多正信の子孫が関わることはありませんでした。
子孫の中で有名なのは、旗本・安藤氏の家臣となった「木村家」で、その血筋は恐らくですが(※私人の個人情報となるので調査できませんが)、今も続いています。