紫式部の結婚相手の藤原宣孝は何をした人?夫婦仲はどうだった?【光る君へ】

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2024年の大河ドラマ「光る君へ」では、源氏物語の作者・紫式部の人生が描かれます。

この記事では、紫式部が結婚した夫の藤原宣孝(ふじわらのぶたか)という人物に関して情報をまとめたいと思います。

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紫式部の結婚相手(夫)藤原宣孝とは?

藤原宣孝(ふじわらのぶたか)は、平安時代の貴族です。

特に「〇〇をした人」として有名なわけではありませんが、花山天皇、一条天皇に仕えて様々な官職を歴任しました。

紫式部の父・藤原為時と藤原宣孝の父・藤原為輔がいとこ同士ですので、紫式部と藤原宣孝は「はとこ(またいこと)」の関係ということにもなります。

生年が不明なので詳しくは分かりませんが、紫式部と藤原宣孝の年は親子ほど離れていたと言われています。

(藤原宣孝→40代後半~50代、紫式部→20代後半?)

なお、藤原宣孝には紫式部以外にも数人の妻がいたとされています。

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紫式部と藤原宣孝の結婚までの経緯

二人が結婚したのは、長徳4年(998年)でした。

しかし、藤原宣孝が紫式部へのプロポーズを始めたのは、その約3年前くらいだったと考えられています。

その間、紫式部は父である藤原為時の転勤に伴って越前(現在の福井県)に引っ越し、約2年間をそこで過ごしました。

それでも、宣孝は求婚を続け、京都から離れた越前まで手紙を送り続けました。

そして、紫式部は約2年間を越前で過ごした後に京都に戻り、藤原宣孝はついに紫式部を妻に迎えることができました。

この時の紫式部は29歳で、当時としてはかなり遅い結婚と言えます。

紫式部としては、結婚が遅くなったことに対して諦めずに求婚し続けてくれた宣孝に、どこか心惹かれていたかもしれません。

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紫式部と藤原宣孝の夫婦仲

少なくともはじめのうちは順調な結婚生活だったようです。

親子ほどの年の差があったようですが、結婚した翌年に二人の間には、藤原賢子(大弐三位)という長女が誕生しています。

ただ、その後しばらく経つと冷めてしまったのか、二人の間のやり取りは次のような感じになります。

※藤原宣孝が他の女のところへ行って紫式部のところへ行けなかったときの言い訳

うち忍びなげき明かせばしののめの ほがらかにだに夢を見ぬかな

訳:忍び嘆いて夜を明かしたので、夜明けにも、ぼんやりとさえ貴女を夢に見ることができませんでした。

※紫式部の返答

しののめの 空霧わたり いつしかと 秋のけしきに 世はなりにけり

夜明けの空は霧りわたって、いつの間にか秋の景色になりました。
(そんなふうにあなたは私に飽きてしまったのですね。)

藤原宣孝は、紫式部との間に娘が生まれてから後は、他の女性のところへいく頻度が高くなったみたいです。

この頃は、夫婦仲はあまり良くなかったのかもしれません。

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紫式部と藤原宣孝の別れ

そうした中、別れは突然やってきます。

藤原宣孝が疫病により亡くなってしまったのです。

結婚から約3年弱くらいのときの出来事でした。

夫の死に伴い、紫式部は歌を詠んでいます。

「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」

※意味:「夫が火葬により煙となった夜から塩釜をとても身近に思う」

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清少納言の枕草子に登場した藤原宣孝

藤原宣孝は、妻である紫式部のライバルとも言われている「清少納言」の作品・枕草子にその名前が出てきています。

右衛門の佐宣孝と言ひたる人は、

「あぢきなき事なり。ただ清き衣を着て詣でむに、なでふ事かあらむ。必ずよも『あやしうて詣でよ』と、御嶽さらにのたまはじ」とて、~

枕草子

この「右衛門の佐宣孝」が藤原宣孝のことです。

この場面の内容はだいたいこんな感じです。

御嶽詣(※大和国の金峰山に参拝すること)に行く時は、どんな高貴な人であっても質素な身なりで参詣するものだと(清少納言は)聞いていたが・・・

「つまらないことだ。清い衣を着て参詣しても、大した御利益もない。権現様は必ずしも『質素な身なりで参詣せよ』とはおっしゃらないだろう。」

藤原宣孝はそう言って息子とともに派手な格好で参詣しました。

まわりの人々は、

「この山で、このような格好の人を見たことがない」

と驚き嘆いていましたが、この数カ月後に藤原宣孝は筑前守に任官されます。

(※つまり、出世します。)

そのことから

「彼があの時言ったことは本当だった」

と評判になったそうです。

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紫式部には他にも結婚相手がいた説がある

最初の結婚相手は紀時文?

紫式部の夫は藤原宣孝だけであり、結婚はこの1度だけであるという説が通説です。

しかし、藤原道長の日記に出てくる「藤原香子」が紫式部と同一人物ではないかとする説が存在し、この説を採用すると紫式部は「紀時文」と結婚していた可能性があります。

この紀時文という人物は、「土佐日記」の作者で「古今和歌集」の選者の一人でもある「紀貫之」の子供です。

紫式部が藤原宣孝と結婚したのが20代後半くらいですので、10代でも結婚することが珍しくない当時の常識からみれば、藤原宣孝との結婚は再婚だったとしてもおかしくはありません。

ただ、そもそも「紫式部=藤原香子」という説自体が、信憑性が高いというわけでもないので、紀時文と結婚していた説は結局可能性の1つに過ぎません。

紫式部は藤原道長の妾だった?

「尊卑分脈」という史料に「源氏物語の作者・紫式部は藤原道長の妾」というような記述があります。

「紫式部日記」にも、「紫式部が藤原道長からの誘いをうまくはぐらかした」というような記述があり、藤原道長と紫式部はもしかしたら恋仲だったのかもしれません。

しかし、「尊卑分脈」が完成したのは南北朝の頃から室町時代頃だと言われています。

紫式部が生きた時代より300年ほど後の時代です。

「尊卑分脈」を書いた当時の人達が300年前の史料を見て「紫式部は藤原道長の妾だったのだろう」と判断してその記述を残したということなので、事実であると断言はできません。

しかも「紫式部日記」では、「うまくはぐらかして」いますからね。

ただ藤原道長から誘われてはいますので、どこかのタイミングで紫式部が藤原道長の妾になったという可能性は否定できません。

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紫式部の結婚相手・「藤原宣孝」まとめ

紫式部の夫・藤原宣孝は、紫式部のはとこ(またいとこ)の貴族です。

彼自身がなにか大きな事件を起こしたりしてはいませんが、官職を歴任し、恐らく左遷などもされていないので職務を全うした、しっかりとした人物だったものと思われます。

紫式部とは親子ほど年が離れていたとされますが、2人は子供を授かりました。

ただ、子供ができた後の夫婦仲は、若干冷えていたようにも見て取れます。

そして、結婚から約3年ほどで、藤原宣孝は亡くなってしまいます。

夫が亡くなった寂しさや不安を紛らわすために、紫式部は創作活動に没頭しました。

このときに書き始めた作品が「源氏物語」だと言われています。

日本文学史上最高傑作とも呼ばれる「源氏物語」は、紫式部が夫・藤原宣孝を失った悲しみを紛らわすための作品だったのかもしれません。

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