【どうする家康】平岩親吉(七之助)の最期と死因は?

【どうする家康】平岩親吉(七之助)の最期と死因は? 映画・ドラマ
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大河ドラマ「どうする家康」に七之助(演:ハナコ・岡部大さん)という人物が登場します。

私利私欲のない正直者で、長男・信康の守り役を命じられていました。

彼も実在した人物で、本名を平岩親吉(ひらいわちかよし)といいます。

ドラマではやや目立たないポジションの彼の生涯をみてみましょう。

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平岩親吉(七之助)の最期と死因→毒まんじゅう?

平岩親吉は1612年、名古屋城で亡くなります。

享年70。

死因は病死だと言われていますが、詳しい病名は不明です。

彼の死には、1つ有名なエピソードがあって、それが「毒まんじゅう暗殺説」と呼ばれるものです。

平岩親吉が亡くなる9か月前のこと。

徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見をします。

その席で家康は秀頼の毒殺を図り、遅効性の毒の入ったまんじゅうを用意します。

秀頼の警戒を解くために、親吉はみずから毒の入ったまんじゅうを食べたうえで、秀頼にまんじゅうを勧めました。

このとき、秀頼の護衛をしていた加藤清正が、それを察して秀頼には食べさせず、自らまんじゅうを食べてしまったとされています。

加藤清正はこのしばらく後に急死しています。

この逸話は歌舞伎などの題材にもなるほど有名になりましたが、もし同じ毒まんじゅうを食べていたのなら、清正と親吉の死に約半年の間があいているのは不自然です。

それに、食べてから数カ月後に死ぬという毒は、確認されていないためこの話は作り話の可能性が高いと言われています。

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平岩親吉(七之助)と信康

平岩親吉は、家康の長男・信康の守り役でした。

守り役(傅役)は、「次の当主を育てる」という大役です。

このことだけでも家康の親吉に対する信頼は大変なものだったことが見て取れます。

そして後に、武田との内通が疑われて信康に切腹の命令が下ると、親吉は自分の首を代わりに信長に差し出すよう求めました。

結局、それは認められずに信康が切腹すると、責任を感じた親吉は蟄居謹慎。

後に許されて家臣に復活しますが、かなり誠実で正直な人物だったようです。

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平岩親吉(七之助)の子孫は?

平岩親吉には跡取りがいませんでした。

それを家康は惜しみます。

そして、自分の息子を親吉の養子としますが、その養子は6歳で早世。

家康は諦めきれず、「親吉の子供だというウワサがある者」を見つけ出して跡を継がせようとします。

しかし、その子の母親が「親吉の子ではない」と言い張ったため、この計画も頓挫。

結局、平岩親吉の死によって、彼の家系は途絶えてしまいました。

なお、「平岩親吉の親戚の家系」は姫路藩の家老としてつづき、今日でも兵庫県などにその子孫がいるとされています。

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まとめ

平岩親吉は江戸時代前期まで生き、恐らく病気で亡くなりました。

秀頼を油断させるために毒まんじゅうを自ら毒見して、その毒で亡くなったという説もありますが、信憑性は低いです。

正直者で、家康からはかなり信用されており、信康の守り役になったり、家康自らが自身の子を親吉の養子としたりしています。

しかし、それでも親吉の家系は途絶えてしまいます。

現在では、平岩親吉の親戚の子孫が、兵庫県などで続いていると言われています。

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