徳川家康の長男・松平信康は、父・徳川家康に切腹を命じられて亡くなります。
享年21。
処罰の理由は、武田氏と通じて謀反を企んだからだとか、親子間に対立があったとか、信康の乱暴狼藉が原因だとか様々な説がありますが、詳しいことは分かっていません。
ところで、信康は9歳のころに徳姫という織田信長の娘と結婚していました。
彼には子供がいたのでしょうか?
また、子孫はどうなっているのでしょうか?
松平信康(まつだいらのぶやす)に子供はいた?
松平信康と正室の徳姫の間には、2人の娘がいました。
登久姫(とくひめ)と熊姫(くまひめ)という2人の姫です。
また、側室との間に「萬千代」という男子がいたとする史料が存在するようです。
が、これはそもそも記載が誤りであるとか、元服前に亡くなったとかいわれており、「萬千代」は実在したのかどうかもわかりません。
しかし、登久姫と熊姫に関しては確かに実在したようです。
信康が切腹した時、2人はまだ4歳と2歳。
幼い姫たちを引き取ったのは家康でした。
家康は2人の孫を養育します。
その後、成長した登久姫は小笠原秀政(おがさわらひでまさ)という武将と結婚。
8人の子を産み、32歳の若さで亡くなります。
熊姫は本多忠政(ほんだただまさ:※本多忠勝の嫡男)と結婚します。
5人の子をもうけ、50歳で亡くなりました。
松平信康の子孫はどうなった?
登久姫、熊姫が産んだ子供たちはそれぞれ活躍しています。
登久姫の子供たち
例えば、登久姫の子は、
- 小笠原忠真(おがさわらただざね)は信濃松本藩の藩主
- 小笠原忠知(おがさわらただとも)は三河国吉田藩初代藩主
- 松平重直(まつだいらしげなお)は豊後高田藩初代藩主
と重要なポジションにつき、その子孫たちも跡を継いでいます。
女性で言えば万姫という娘が、蜂須賀小六の孫と結婚し、阿波国徳島藩の繁栄に貢献しました。
熊姫の子供たち
熊姫の子供には、
- 本多忠刻(ほんだただとき)→播磨国姫路新田藩の初代藩主
- 本多政朝(ほんだまさとも)→上総国大多喜藩の第3代藩主など
- 本多忠義(ほんだただよし)→播磨国姫路新田藩の第3代藩主など
女性は、国姫という姫が「堀忠俊(ほりただとし)」、亀姫という姫が「小笠原忠脩(おがさわらただなが)」という武将にそれぞれ嫁いでいます。
なお、長男の本多忠刻は、2代将軍・徳川秀忠の娘「千姫」と婚姻しています。
そして、この2人の間に生まれた勝姫(かつひめ)をたどると、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜に行き着きます。
まとめ
松平信康は父・家康によって処罰されましたが、その子供達は家康が引き取って育てています。
その子達は特に罰することはありませんでした。
さらにその子供たちは、後に藩主だったり、重臣の妻だったりと重要なポジションにつけられています。
信康は処罰されましたが、その罪は子孫にまで及ぶものではなかったと言えます。
そうなると、信康が切腹した理由はなんだったのでしょうか?
謀反とかだったらその子孫たちも歴史の表舞台に出てくるようなこともないと思われるので、もしかしたら「武田氏との内通」という通説どおりの罪で処罰されたわけではないのかもしれません。