「本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたから、その仇を討った豊臣秀吉が織田信長の跡をついで天下統一を果たした」
これが今の時代では常識となっています。
ですが、本能寺の変では、織田信長と一緒に「嫡男の織田信忠」が討たれたことが、織田家が歴史の表舞台から姿を消していく大きな要因になったと言われています。
つまり、信長が討たれても、「優秀な跡取り」である信忠が生きていれば、織田家の支配は揺るがず、その後の豊臣・徳川の天下はなかったかもしれないのです。
あまりスポットライトが当たることのない織田信忠を詳しく見ていきましょう。
信長の嫡男・織田信忠は有能な武将だった?
織田信忠は織田信長の長男だったとされています。
母親は不明ですが、子のいない信長の正室・帰蝶(濃姫)の養子として育てられたとも伝わります。
長篠の戦いが終わった後、信長は織田家の家督を信忠に譲っています。
これが1576年11月のこと。
以降、形式的な織田家の当主はこの織田信忠でした。
信忠は幼い頃から織田家の家督を継ぐことを約束されていたらしく、信長は信忠が初陣するより前から戦場に連れて行って戦いを学ばせていました。
近年の研究では、目立った功績こそ無いものの、無難に軍務や政務をこなしており、織田家の後継者として十分な能力と資質を兼ね備えていたとされています。
甲斐・武田勝頼の討伐では、信忠は総大将を任されていました。
このときの信忠の進撃は速く、あの武田勝頼が後手にまわって態勢を立て直せなかったほどです。
武田の実力を恐れていた信長は、「深追いするのはやめろ」という指示を出していましたが、実際の現場を見た信忠は自身の考えで判断。
信長の命令を破って武田領深くまで攻め入ります。
結果、そのまま武田氏を滅ぼすことに成功した信忠の才を、信長が称賛したと伝わります。
信忠が「本能寺の変」から逃げていたら?
本能寺の変の際、織田信長のいた本能寺は明智勢に完璧に囲まれており、信長の逃げ道はなかったと言われています。
このとき、信忠は妙覚寺という別の寺に泊まっており、本能寺が襲撃を受けたという知らせを聞くと、信長を助けに向かいます。
しかし、その途中で信長が討たれたとの報告が入ります。
光秀は必ずこちらにも兵を向けると察した信忠は、近くの二条新御所に立てこもって戦うことを決めました。
その二条新御所が光秀の軍に攻められ、信忠は自害してしまいます。
ですが、このとき籠城することを選ばずに、京都を抜け出ようと思えばそれは可能でした。
もし、信忠がこの難を逃れていたらどうなっていたのでしょう?
まず、この時すでに織田信長は信忠に家督を譲っています。
つまり、織田家の当主は織田信忠です。
当主が討たれていないのであれば、謀反は失敗であり、信忠の命令によって明智光秀が他の織田家家臣達に討たれて終わりです。
清州会議のような後継者を決める話し合いも必要なくなります。
信忠が暗愚な後継者だったとしたら話は変わるかもしれませんが、信長の後継者として問題ないほどの器量の持ち主であれば、少なくとも織田信忠をトップとした織田政権がしばらくは続いたでしょう。
本能寺の変の時点で織田信忠の年齢は26歳。
羽柴秀吉が45歳で、徳川家康が39歳。
織田信忠が「本能寺の変」のときに討たれていなければ、秀吉、家康には天下取りのチャンスが回ってこなかったかもしれません。
まとめ
あまり目立つことはないものの、織田信長の後継者として十分な資質を持っていたとされる織田信忠をご紹介しました。
父・信長があまりにも目立っていたため、無難に物事を進める信忠はインパクトにかけますが、実力主義者の信長が認めただけあって優秀な後継者だったとされています。
彼がもし本能寺の変後も生き延びていたら、今とは歴史が大きく違っていたのかもしれません。