大河ドラマ「どうする家康」の「小牧・長久手の戦い」で、池田恒興・森長可が「中入り」という作戦を提案します。
この「中入り」という戦術は一体どんな戦法なのでしょう?
中入りとは?
「中入り」とは、対陣した両軍がにらみ合っているときに、一部の兵力を使って敵が思いもよらない場所を奇襲する作戦です。
敵の注意を正面の軍隊に集めておいて、別働隊がいきなり別の地点を攻め立て、敵の虚をつくという戦法です。
奇襲が成功すれば大ダメージを与えられますが、別働隊の動きがバレてしまえば逆に兵力を減らしてしまうことになるというリスクの高い作戦と言えます。
そして、小牧・長久手の戦いでは、まさに奇襲がバレて秀吉軍が兵力を削られました。
小牧・長久手の戦いの「中入り」
小牧・長久手の戦いでは、小牧付近で羽柴・徳川両軍が対陣し膠着しているときに、池田恒興が秀吉に献策したとされています。
対陣したまま一部の兵を使って家康の本拠地・三河の手薄な城などを襲い、放火して混乱に陥れれば、家康は小牧山城を守ることができなくなる、という目論見でした。
池田恒興はこの直前、酒井忠次らの徳川軍に手ひどくやられていたため、名誉挽回のために三河を奇襲する別働隊になることを志願します。
なお、この別働隊には後に秀吉の跡を継いで関白となる羽柴秀次もいました。
恒興ら三河奇襲部隊は、三河へのルート上にある「岩崎城」を約3時間という短時間で落城させます。
しかし、この短い戦いの最中、秀次・恒興らの動きを察知した徳川軍がすでに背後まで迫っていました。
徳川軍はまず、攻城戦には参加せずに休息していた秀次の部隊を奇襲。
秀次は馬を失い、命からがら逃げ延びます。
その後、徳川軍は秀吉軍別働隊の三河奇襲部隊を分断。
徳川軍出現の報告を受け、岩崎城から引き返し始めた池田恒興・森長可らは帰り道で徳川軍と対峙。
両軍は激突します。
兵の数はほぼ互角でしたので一進一退の攻防が続きますが、前線で戦っていた森長可が狙撃されて討ち死にします。
崩れ始めた軍を立て直そうとした池田恒興も永井直勝に討ち取られます。
大将を失った池田・森の軍は壊滅。
徳川軍は勝利し、その日の夜のうちに家康は小牧山城に帰還しました。
織田信長が好んで使っていた戦法?
「中入り」は、織田信長が名付けた作戦で、信長が好んで使っていたと言われています。
そもそも「中入り」という言葉自体に明確な定義があるわけではないため、どの戦で「中入り」を使ったのか判断に迷いますが、少なくとも「一部の兵を使っての奇襲」は信長がよくやっていました。
有名な桶狭間の戦いもそうですし、朝倉義景を叩いた刀根坂の戦いの前日にも、自ら僅かな兵とともに砦を奇襲しています。
兵力が大きくなるとだんだん奇襲は行わなくなりますが、ターニングポイントで奇襲を選ぶ勇気が信長にはありました。
まとめ
中入りとは、一部の兵力を使って、膠着している敵の不意をつく奇襲作戦のことです。
ただし、定義されているわけでもないので、実際はあいまいです。
一部の兵力を割いて迂回させることになるので、敵にバレれば兵力を減らしてしまうリスクがでます。
小牧・長久手の戦いでは、挽回しようと中入りを提案した池田恒興が討ち取られるという結果になりました。
みなさんも中入り作戦をするときは、慎重に検討しましょう。