賤ヶ岳七本槍の一人として活躍した後、豊臣家の重臣として徳川・豊臣の間を取り持ってきた片桐且元。
彼は方広寺鐘銘事件をきっかけに、豊臣方から命を狙われ、徳川家康のもとへ参じます。
その後の片桐且元の動向を紹介したいと思います。
片桐且元の最期
大坂夏の陣から20日ほどした5月28日に京屋敷にて60歳で亡くなります。
この前年、且元は咳病を患い、家康より送られた片山宗哲という医者の診察を受けていました。
しかし、大坂夏の陣から程なくのことで突然の最期だったため、豊臣家存続を果たせなかった無念さから自ら命を絶ったのではないかという噂もささやかされています。
片桐且元が亡くなったのは病気が原因である可能性が高いですが、秀頼・淀殿らの三七日(※亡くなってから21日目の供養の日)という節目の日だったため、殉死したという説も存在します。
「裏切り」のその後
且元は大阪から退去した後、大阪方に対して攻めかかります。
そして家康が二条城に到着すると、且元は軍議に加わり、そこで先鋒を命じられます。
その後、且元は大阪方に対してバリバリ攻撃を仕掛けていきます。
真田丸への攻撃にも参加していますし、大阪方が講和に動くきっかけとなった本丸への砲撃にも片桐且元は関わっています。
この功績により、冬の陣の講和後、且元は一万石の加増を受けています。
大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいることを、彼らの助命嘆願の依頼とともに且元へ知らせてきたので、且元は秀忠にそのことを伝えます。
しかし、助命嘆願は叶わず、豊臣家は滅亡しました。
片桐且元が亡くなったのは、その約20日後です。
まとめ
片桐且元は秀吉が亡くなった後、豊臣家の家老として活躍していました。
豊臣家に尽くしていましたが、徳川との交渉役だったため、他の家臣に謀反を疑われ、最終的にそのとおり大阪城を出ます。
その後、徳川に従い大阪城を攻め、功績をあげています。
そして大阪城が落ちた時、且元は秀頼たちの助命嘆願を取り次ぎました。
嘆願は聞き入れられず、秀頼たちが自刃すると、一月も経たないうちに且元も亡くなります。
死因は病死とされています。
且元の死が本当に病死なのか、追い腹を切ったのか、本当のところは分かりません。
長く仕えた豊臣家に殉じたのかもしれませんし、病気でたまたま秀頼と近い時期に亡くなったのかもしれません。
ただ、且元は大阪城を出た後は、徳川方として大阪城攻めにわりと積極的に関わっており、これは旧主君との決別の意思表示ともとれます。
また、亡くなる前年から病気を患っていたということなので、病死の可能性の方が高いのかもしれません。