本多忠勝と織田信長の関係は?徳川家康の強すぎる家臣!

本多忠勝と織田信長の関係は?徳川家康家臣の強すぎる男 映画・ドラマ
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大河ドラマ「どうする家康」では、討ち死にしたという報告もされていた本多忠勝ですが、実際は生涯57回戦場で戦って、かすり傷すら負ったことがないと伝えられています。

そんな強すぎる男と天下人・織田信長との関係はどのようなものだったのでしょうか?

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本多忠勝と織田信長の関係は?

本多忠勝と織田信長の関係は、「主君の同盟者」「同盟者の家臣」であり、一時期は「家臣の家臣」という立場でした。

本多忠勝の主君は、生涯「徳川家康」ただ一人です

その徳川家康にとって織田信長は同盟者であったため、本多忠勝から見れば織田信長は「主君の同盟者」織田信長から見れば本多忠勝は「同盟者の家臣」となります。

織田信長と本多忠勝が直接話しをしたという具体的な記録やエピソードは残っていません。

ただし、織田信長は本多忠勝のことを「花も実も兼ね備えた武将である」と近臣に紹介していますので、おそらく何らかの関わり自体はあったものと思われます。

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徳川家康が織田信長の家臣だった時期がある?

あまり知られていないかもしれませんが、徳川家康は織田信長の家臣となった時期があるとされています。

その時期とは(※ハッキリとはしていませんが)、織田信長が将軍・足利義昭を追放し、室町幕府が滅びた1573年ごろから本能寺で織田信長が亡くなる1582年までです。

1575年に起きた長篠の戦いでは、徳川家康は配下として織田信長の命令に従っています。

家康が妻・瀬名と息子・松平信康を死に追いやったのも、主君(織田信長)の命令に逆らえなかったからとする説が存在します。(※近年では家康と信康が対立していたとする説が有力です。)

そんなわけで、徳川家康が織田信長の家臣であったため、そのときの織田信長と本多忠勝の関係は「家臣の家臣」となります。

前述の「花も実も兼ね備えた武将であると近臣に紹介」したというのは、本多忠勝が織田信長の家臣の家臣であったこの時期のことです。

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まとめ

本多忠勝と織田信長の関係については、

  • 本多忠勝から見れば織田信長は「主君の同盟者」
  • 織田信長から見れば本多忠勝は「同盟者の家臣」
  • 徳川家康は織田信長の家臣となった時期があるためその時期は「家臣の家臣」

となります。

2人が直接対話記録やエピソードなどは残っていません。

ただし、それは当時の歴史記録が必ずしも完全ではないためであり、実際には彼らが何らかの形で接触した可能性も否定はできません。

特に戦国時代は情勢が日々変わり、多くの大名や武将たちが様々な形で交流を持っていた時代でもあります。

信長は忠勝のことを褒めていますので、記録が残っていないだけで、仲は良かったのかもしれません。

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