大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に陳和卿(ちんなけい)という人物が登場します。
彼は、源平の争乱の初期に、平家の焼き討ちで焼失した「東大寺」の再建に尽力した中国の技術者です。
その陳和卿が、源実朝の渡宋計画に大きく関わってくることになります。
陳和卿(ちんなけい)とは?
陳和卿(ちんなけい)は中国(南宋)出身の職人です。
平安時代末期に来日し、船が壊れて帰れなくなったところ、重源(ちょうげん)という僧に誘われて、東大寺の大仏と大仏殿の再建に寄与したとされています。
平治の乱に勝利した平氏が権力を握った後、そのリーダーである平清盛は旧来の寺院の特権を無視する政策を取ります。
その影響を受けた東大寺・興福寺などの南都(奈良・平城京があった地域)の寺院は、平氏に対して反抗的な態度を取り続けていました。
以仁王が挙兵すると、反平氏の動きが活発化します。
いよいよ放置できなくなった平清盛は、五男の平重衡(たいらのしげひら)に南都の焼き討ちを命じました。
その結果、東大寺はほとんどの建物が焼け落ち、仏像も焼損してしまったと言われています。
これを修復したリーダーが重源(ちょうげん)という僧であり、その重源を技術的にサポートしたのが陳和卿です。
現代でいう技術コンサルタントの役割です。
その後、陳和卿は東大寺再建の功績を認められて褒美を与えられますが、それを妬んだ東大寺の僧侶からでっちあげの悪事を告発され(※諸説あり)、追放されてしまいました。
源実朝の造船と渡宋計画の結果
次に陳和卿が歴史に登場するのは、源実朝が3代鎌倉殿となった時代です。
鎌倉に現れた陳和卿は、源実朝への拝謁を希望し、実際に面談が叶うと涙を流したとされています。
突然泣き出した陳和卿に実朝がうろたえていると、陳和卿は「あなたは育王山の長老で、私はその門弟でした。」と、前世のことを語り始めます。
傍から見ると完全に不審者ですが、実朝はこの6年前に、夢で高僧に同じことを言われており、しかもその夢のことは誰にも言っていなかったため、陳和卿を一気に信頼したと言われています。
(余談ですが、実朝には予知能力があったとされており、和田合戦もその3年前に予知夢で見たとされています。)
その後、実朝は陳和卿に大船を造るように命じます。
約半年後、船が完成しました。
進水式は由比ヶ浜で行われました。
数百人の人員が約4時間かけて船をひきましたが、その船は海に浮かばなかったとされています。
陳和卿は、造船にも詳しく、むしろ大仏や建物よりも造船の方が専門であったと言われています。
専門家の陳和卿が造った船が、航海の途中で波に打たれて壊れるわけでもなく、「浮かばなかった」というのですから、これは何者かによって妨害された可能性が高いという見方が有力です。
この造船に、執権の北条義時・北条時房らは反対しており、実朝はそれをふりきって造船を進めていましたので、「義時らが計画的に阻止した」のではないかと言われています。
なお、その後、陳和卿の消息は、史料に一切登場しません。
源実朝の渡宋計画は、幕府内部では混乱の火種以外の何物でもありませんでした。
もし、この造船・渡宋計画が北条義時らの謀で失敗したのであれば、おそらく陳和卿もこのときに義時によって始末されており、だからこそ以降は消息不明になって史料にも出てこなくなったと言えそうです。