北条義時の子供たち「名越」「極楽寺」「伊具」「政村」「金沢」の祖

後鳥羽上皇 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では北条義時が主人公となっています。

北条義時は子供が少なくとも9人以上はいたとされていますが、ドラマでは跡継ぎとなる北条泰時しか出ていません。

義時の他の子供たちはどのような人物だったのかを紹介したいと思います。

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北条義時の子供たち

北条義時の子供は記録に残っているだけでも9人はいます。

  1. 北条泰時
  2. 北条朝時
  3. 北条重時
  4. 北条有時
  5. 北条政村
  6. 北条実泰
  7. 北条時尚
  8. 竹殿
  9. 一条実雅の正室

それぞれどんな人だったのか見ていきましょう。

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北条泰時(ほうじょうやすとき)

北条泰時はドラマにも出演している北条義時の長男です。

母親は御所に仕える女官の「阿波局(ドラマでは八重)」とされています。

母親は側室でしたが、最終的に泰時が義時の跡をつぎ3代執権となって活躍します。

制定後数百年ものあいだ武家の基本法であり続けた「御成敗式目」を制定したのも彼です。

人格も優れ、人望が厚かったと伝わります。

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北条朝時(ほうじょうともとき)

北条朝時は、義時と姫の前(比奈)の間の子で次男です。

正室との間での長男であったため、本来は北条義時の嫡男(跡継ぎ)はこの朝時でした

しかし、源実朝の御台所(奥さん)に仕える女官に手を出して実朝の怒りを買ってしまいます。

このため父・義時から親子の縁を切られ、跡継ぎにはなれませんでした。

後に名誉挽回し、御家人として幕府に仕えています。

朝時は祖父である北条時政の屋敷を承継しています。

この屋敷があった場所が「名越(なごえ)」というところであったため、彼の子孫の北条氏は「名越流」と呼ばれています。

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北条重時(ほうじょうしげとき)

北条重時は義時の3男で、母は正室の姫の前(比奈)です。

「六波羅探題北方」「連署」など、鎌倉幕府における要職を歴任し、歴代の執権・将軍を支えました。

長男・泰時と次男・朝時は跡継ぎを巡って対立していたような気配がありますが、この重時は一貫して長男・泰時を支えました。

重時は出家し引退すると「極楽寺」という寺に住みました。

このため重時は「極楽寺殿」と呼ばれ、その子孫は極楽寺流と呼ばれます。

極楽寺流北条氏は、北条のリーダーである「得宗家」に継いで家格が高い家柄となり、代々得宗家を支えました。

(関連記事:得宗家とは?

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北条有時(ほうじょうありとき)

北条有時は義時の4男で、側室:「伊佐朝政の娘」が母親です。

「将軍の近習」や「鶴岡八幡宮への使者」という役割をこなしました。

後に鎌倉幕府における最高政務機関・評定衆の一員にもなります。

陸奥国伊具郡を領地としたため、彼の子孫は「伊具流」と呼ばれます。

伊具流は祖である有時が側室の子であったため、北条の中ではあまり家格が高くなかったとされています。

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北条政村(ほうじょうまさむら)

北条政村は義時の5男で、伊賀の方(ドラマでは「のえ」)との間の子です。

「伊賀氏の変」という事件で、執権に擁立されかけますが、兄・泰時のはからいで無罪となります。

(関連記事:伊賀氏の変

その後は泰時を支え、泰時が亡くなったあとは第7代の執権に就任しています。

そしてその時代に「モンゴルからの国書」が届きます。

この国書は「降伏しないと兵を送る」という脅しを暗に含んだものでした。

モンゴル軍が攻めてくることを悟った政村は、得宗家の後継者「北条時宗」に執権を譲って団結を図り、自身は連署となります。

元寇を退けた執権として北条時宗の名が有名ですが、北条政村の支えも大きかったものと思われます。

彼の子孫は「政村流」と呼ばれ、得宗家、極楽寺流に継ぐナンバー3の家格であったとされています。

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北条実泰(ほうじょうさねやす)

北条実泰は義時の6男で、母は伊賀の方(のえ)です。

「伊賀氏の変」に巻き込まれますが難を逃れて、父の所領である「武蔵国金沢郷(横浜市金沢区)」を相続しました。

このため、彼の子孫は「金沢流」と呼ばれます。

実泰は能力も高く泰時からも信頼されていたようで、兄の有時・政村より早く出世しています。

しかし、「伊賀氏の変」で精神のバランスを壊していたようで、やがて病となり27歳で出家します。

その後、幕府に復帰することはなく、56歳で亡くなっています。

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北条時尚(ほうじょうときなお)

北条時尚は義時の7男で、母親は伊賀の方(のえ)とされています。

陸奥七郎という通称で呼ばれていたようです。

彼に関しては、残念ながらこれ以上の詳細は不明です。

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竹殿(たけどの)

竹殿は義時と姫の前(比奈)の間の女子です。

大江広元の長男・大江親広(おおえちかひろ)の側室でしたが、親広が承久の乱で朝廷側についたため離縁。

その後、公卿である土御門定通(つちみかどさだみち)の側室となります。

京に住んで、鎌倉にいる兄・泰時と京の仲介役を務めました。

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一条実雅の正室

「伊賀氏の変」で将軍に擁立されようとした「一条実雅」の妻も北条義時の娘でした。

彼女に関しては何も記録が残っていません。

ただ、夫の一条実雅は、「伊賀氏の変」の処罰として越前へ流罪となっており、そのときに妻とは離縁したとされています。

一条実雅は配流先の越前で4年後に変死したとされています。

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