北条得宗家とは何?北条泰時は側室の子なのに跡継ぎになれたのはなぜ?

平賀朝雅 映画・ドラマ
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大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主人公の北条義時が他の御家人たちとの権力争いに勝利すると、幕府のナンバー2である「執権(しっけん)」という地位に就くことになります。

実際の鎌倉幕府にも、鎌倉殿を助け政務を統括する「執権」という役職がありました。

事実上の鎌倉幕府の最高職です。

代々この執権は、ほとんど北条氏の「得宗家(とくそうけ)」が務めました。

それでは、この得宗家とは何なのでしょうか?

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得宗家とは?

得宗家とは、北条氏の惣領(リーダー)の家系です。

鎌倉幕府の北条一門の最上位の家柄です。

通常は初代執権とされる北条時政を初代とし、以後「義時」「泰時」「時氏」「経時」「時頼」「時宗」「貞時」「高時」の9代を数えます。

この内、親の泰時より先に亡くなった時氏以外は全員執権の職についています。

執権の職は基本的には得宗家が継ぎ、得宗家の当主が幼少の場合は北条の庶流の家から選ばれるという形式が取られていました。

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「得宗」とは何のこと?

ところでこの「得宗」という言葉は何のことでしょうか?

これは諸説ありますが、2代執権・北条義時の別名だとされています。

つまり、「北条得宗家」とは、北条義時の直系の子孫という意味です。

「得宗」は、一説には「いざ鎌倉」の逸話で有名な5代執権・北条時頼が出家後、北条義時の生前の功績をたたえて送った名前とも言われています。

(関連記事:いざ鎌倉とは?

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北条泰時は側室の子なのに得宗家を継いだのはなぜ?

ところで、得宗家の名前の由来にもなった「北条義時」には少なくとも9人以上の子供がいました。

この時代は長男が単純に親の跡を継ぐわけではなく、通常は正室の子の方が側室の子よりも跡継ぎとして優先されていました。

北条義時には正室との間に少なくとも5人の男子がいます。

ですが、北条義時の跡を継いで得宗家の当主となったのは側室の子である北条泰時です。

大河ドラマでは泰時の母親「八重(やえ)」は最初の妻として正室扱いされていましたが、史実の北条泰時の母は「阿波局」という側室だったとされています。

側室の子であるにも関わらず、泰時が得宗家を継いだのはなぜでしょうか?

正室:姫の前の子供

北条義時と正室・姫の前(比奈)との間の男子は少なくとも「北条朝時(ほうじょうともとき)」「北条重時(ほうじょうしげとき)」の2人がいました。

このうち、正室の子として長男の「北条朝時」がもともと北条義時の嫡男(跡継ぎ候補)だったとされています。

しかし彼は20歳のとき、3代将軍・源実朝の妻に仕える女官を深夜に忍び込んで誘い出したことが露見し、実朝の怒りを買ってしまいます。

この一件で、父・北条義時から親子の縁を切られました。

後に活躍して汚名返上はできましたが、義時の跡継ぎにはなれませんでした。

もう一人の男子、「北条重時」は朝時に代わって嫡男扱いされるということもなく、異母兄の北条泰時を一貫してサポートしました。

後に彼は長きにわたり、六波羅探題の最高責任者として活躍しています。

継室:伊賀の方の子供

北条義時と継室の伊賀の方(のえ)との間には「北条政村(ほうじょうまさむら)」「北条実泰(ほうじょうさねやす)」「北条時尚(ほうじょうときなお)」の3人の男子がいました。

北条泰時が亡くなったとき、この中で一番年上の北条政村でも20歳です。

若すぎると判断されたのでしょうか。

父・義時の葬儀の際の序列でも、嫡男ではなく庶子扱いをされています。

後に「伊賀氏の変」という事件が起こります。

(関連記事:伊賀氏の変

簡単に言うと、「北条政村を執権しようとするクーデター未遂事件」です。

「北条政村こそが得宗家の嫡男だ」と考える人たちが一定数いたようですが、クーデターは未遂に終わります。

なお、この事件で担ぎ上げられそうになった当の北条政村は処罰を免れ、のちに得宗家の代理として第7代目執権に就任することになります。

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