大河ドラマ「どうする家康」に、前田郷敦さんが演じる「武田勝頼(たけだかつより)」という人物が登場します。
主人公・家康を追い詰めた武田信玄の子であり、信玄の跡をついで戦国最強軍団を率いた武将です。
この家康を散々苦しめた武田家は、物語中盤で滅びることになります。
武田勝頼の最後はどのようなものだったのでしょう?
武田勝頼の最期と死因
武田勝頼は戦場で自刃して亡くなります。
武田勝頼自刃の戦は「天目山の戦い」と呼ばれ、これは織田信長と徳川家康の侵攻がきっかけでした。
織田・徳川の軍勢が甲斐国に攻めてくると、家臣たちが次々と離反。(※理由は後述)
しかもタイミング悪く勝頼は、この頃ちょうど拠点を移そうとしていました。
その結果、最後の砦となるはずの本拠地・新府城が未完成という状態です。
未完成の城に籠城して戦うわけにもいきませんので、建築途中の新府城に火をつけて家臣の城へ移動します。
ところが、その家臣もまた裏切り、勝頼は行き場を失ってしまいました。
逃げ場がなくなった勝頼は、武田家ゆかりの天目山にあるお寺を目指すことにします。
戦の最中に防衛設備のないお寺に向かった時点で、おそらく覚悟をしていたのでしょう。
その道中、追手に追いつかれると、妻や子供と共に自害しました。
勝頼とその嫡男・信勝が自刃したことで、戦国最強を誇った武田家は滅亡してしまいました。
(なお、当時2歳だった勝頼の三男は、僧侶となり100歳を超えるまで生きたと言われています。)
武田は誰に滅ぼされた?
武田は織田信長によって滅ぼされました。
信長は武田勝頼の義理の弟にあたる木曽義昌が織田家に寝返ると、勝頼の討伐を決定。
嫡男・織田信忠を大将として甲斐に侵攻を始めます。
するとその直後に浅間山が噴火。
当時はまだ呪術やまじないが今よりも力を持っていた時代ですから、「浅間山の噴火は、東国に危機が迫っている証」という言い伝えが信じられていました。
ちょうどのタイミングで始まった織田軍の侵攻を前に、武田軍は早くも動揺。
しかも信長は侵攻にあたり、天皇から「武田征伐の命令」をとりつけていましたので、武田は朝敵となり、武田軍はますます混乱。
相次いで投降する者が出たため、織田軍はほとんど戦わず南信濃を押さえました。
その後、高遠城の仁科盛信(武田勝頼の弟)が唯一抵抗を見せますが、数に勝る織田軍の猛攻にあえなく落城。
そして、武田の一族で重臣だった穴山梅雪(※勝頼から見ると従兄弟)が徳川家康に寝返ると、ますます離反が加速します。
勝頼は建築途中の新府城を捨て、小山田信茂の岩殿城へ行くことを決めますが、その小山田信茂も途中で勝頼を裏切ります。
もはや行き場を失くした勝頼は、先祖が自害したという天目山に向かいました。
その途中、織田信長の家臣・滝川一益の軍勢に追いつかれ、妻子とともに自害して果てます。
享年37でした。
武田氏滅亡の原因
武田家滅亡のきっかけの一つになったと言われるのが、高天神城の戦いです。
長篠の戦いで大敗を喫して以降、武田勝頼は外交の再構築と領土の強化に乗り出します。
相模の北条と同盟を結び、本拠地を躑躅ヶ崎館から新府城へ移そうとしていました。
しかし、上杉謙信の急死により起きた上杉家のお家騒動がきっかけとなり、北条とは敵対。
(※北条の縁者ではない後継者候補を支持したため)
上杉家とも同盟を結びますが、上杉家は名将・上杉謙信を失ったうえ、お家騒動で疲弊しており、力を失くしていましたので、戦が起きても助けは望めません。
織田・徳川・北条と三方を敵に囲まれ、出兵を繰り返すうちに出費がかさみ、また、新しい城の建築費用も同時にのしかかってきたため、武田領内は疲弊していきます。
この時期、かなりの年貢がとりたてられたそうで、徐々に人心が勝頼から離れていきました。
苦しくなってきた勝頼は、織田信長との同盟を模索しますが、信長はこれを無視。
そんななかで、徳川家康が武田領の高天神城を攻め立てます。
高天神城は窮地に陥り、勝頼に援軍を求めますが、このときまだ信長との和睦を試みていた勝頼は信長を刺激することをおそれ、援軍を送りませんでした。
援軍が来ないことを察した高天神城は、徳川に降伏しようとしますが、家康はこれを拒否。
兵たちはことごとく討ち死にし、高天神城は落城しました。
そして、「援軍を送らずに味方を見殺しにした」という事実が、武田勝頼の信頼を致命的に失墜させます。
すかさず織田方がこの高天神城の一件を言いふらし、武田方を調略していきました。
これ以降、武田方の離反が相次ぎ、武田勝頼は追い詰められていくことになります。
武田滅亡のきっかけとなった一因は、織田・徳川が勝頼に高天神城を見捨てさせたことにありそうです。
まとめ
武田勝頼は「無能な将」とも言われることがありますが、決してそんな愚鈍な男ではありませんでした。
信玄のライバル、上杉謙信は信長に宛てて「勝頼は片手間であしらえるような男ではない」という手紙を送っていますし、その言葉どおり、信長は勝頼に東美濃を取られてしまいました。
長篠の戦いでは大敗を喫した勝頼ですが、実はそれまでの戦は無敗です。
- 「長篠の戦いで出陣を命じ多くの重臣を失ってしまったこと」
- 「御館の乱で上杉景勝を支持し北条家を敵に回してしまったこと」
- 「高天神城に援軍を送らなかったこと」
この数度の判断ミスで、最強と言われていた武田家は滅んでしまいました。
これらの場面で勝頼が違う判断を行っていたら、日本の歴史は今と全然違ったものになっていたかもしれません。