大河ドラマ「どうする家康」の新キャストが発表され、原菜乃華さんが「千姫(せんひめ)」を演じることが公表されました。
この千姫とはどのような人物だったのでしょうか?
千姫とはどんな人?
千姫とは、徳川秀忠とその妻・江(ごう)の間に生まれた姫です。
つまり、徳川家康の孫娘です。
関ヶ原の戦いの3年後、7歳という若さで豊臣秀頼(秀吉の子)と結婚し、大坂夏の陣では、家康の命令によって焼け落ちる大阪城の中から救出されたとされています。
秀忠の聡明さと江の美貌を受け継いだ、美しい姫君であったと伝わります。
穏和で同情深い性格だったようで、家康・秀忠からも可愛がられ、弟にあたる3代将軍・家光からの信頼も厚かったとされています。
3代・家光、4代・家綱の時代の大奥の最高顧問はこの千姫であったと言われています。
千姫の夫と子供は?
前述のとおり、千姫は最初、豊臣秀頼と結婚しました。
当時、豊臣秀頼11歳、千姫7歳ですので、もちろん政略結婚です。
これは、豊臣秀吉が生前に徳川と縁を結ぶために画策した政略結婚でした。
なお、秀頼と千姫は従兄弟同士にあたります。
大坂夏の陣で豊臣が滅ぼされると、千姫は助け出され、20歳のときに再婚。
再婚相手は本多忠刻(ほんだただとき)という大名で、あの本多忠勝の孫にあたります。
2人の間には、勝姫、幸千代という1男1女が生まれました。
しかし、長男の幸千代は3歳で他界。
長女の勝姫は、池田光政(いけだみつまさ)という武将に嫁ぎます。
この池田光政という武将は、小牧・長久手の戦いで徳川軍が討ち取った「池田恒興」のひ孫にあたります。
余談ではありますが、最後の将軍・徳川慶喜はこの池田光政と勝姫の血を継いでいます。
千姫の最期
千姫が亡くなったのは、1666年。
ニュートンが「万有引力の法則」を発見したのと同じ年です。
享年70。
死因は肺炎だったとされています。
弟である徳川家光(3代将軍)は、千姫の体調が悪くなるたびに彼女のもとへ見舞いにいったと記録されています。
まとめ
徳川秀忠の娘で、豊臣秀頼の妻であった千姫。
7歳で当時の最高権力者間の架け橋の役割を背負わされた彼女は、その後波乱万丈の人生を歩みました。
嫁ぎ先の豊臣家は、実の祖父によって滅ぼされます。
自身は助け出されたものの、夫(秀頼)と義母(淀殿)の助命嘆願は聞き入れられませんでした。
それでも、秀頼と側室との間の娘・天秀尼(てんしゅうに)を自らの養女とすることで彼女の命を守ります。
その翌年、本多忠刻のもとへ輿入れしようとすると、坂崎直盛(さかざきなおもり)という大名が千姫を強奪しようと画策。
結局、この強奪作戦は未遂に終わり、坂崎家はお取り潰しとなっています。
再婚後に2人の子供に恵まれたものの、1人は早世。
すると、後を追うように夫、義母、実母が次々と亡くなり、娘と2人で竹橋御殿で暮らし始めます。
そのわずか2年後、娘の勝姫(11歳)は嫁ぎ、一人暮らしをすることに。
大奥の最高顧問的な立場となって頼りにされ、幕府を影から支えつづけますが、そうした中、明暦の大火で家を失ってしまいます。
晩年は肺を病むことが多かったようです。
このように、度々不幸な目にあっていた千姫ですが、節目の大事な場面で冷静な選択をし、当時としては長生きといえる70歳まで生き、天寿を全うしました。
穏和で同情深く、優しい性格であった反面、自分が決めたことに関しては頑固で融通が利かないという人間臭さも持ち合わせた魅力的な人物であったようです。
「どうする家康」では、千姫はどのように描かれるのか、期待して待ちましょう。