瀬名の最期【どうする家康】最後は夫の命令で殺される?

どうする家康 映画・ドラマ
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大河ドラマ「どうする家康」で有村架純さんが演じている「瀬名姫(築山殿)」。

主人公・家康(演:松本潤さん)と仲良く過ごすシーンが印象的です。

ところで、「徳川家康の正室は豊臣秀吉の妹」と記憶している人も多いのではないでしょうか?

これはそのとおりで、豊臣秀吉の妹(朝日姫)は家康の2人目の正室です。

ということは、1人目の正室(瀬名姫)とはいずれ夫婦でなくなるということです。

瀬名姫はどうなったのでしょうか?

関連記事:「瀬名」は実在?

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瀬名姫と家康の別れ

諸説はありますが、早ければ家康が今川氏真と手を切り、織田信長と同盟を結んだ時点で家康と瀬名姫とは離縁していた可能性があります。

「どうする家康」では、第4話で家康(当時は松平元康)が瀬名に害が及ばぬように離縁状を書こうとしていました。

実際には、この時に本当に離縁していたのかもしれません。

関連記事:どうする家康ネタバレとあらすじ第4話

というのも、瀬名が今川館から岡崎にやってきた際、岡崎城には入らずに、近くの寺に住んでいます。

正室を城ではなく、城下の寺に住まわせるのはかなり不自然です。

また、この頃書かれたある武将の日記では、瀬名のことを「信康御母様」(※信康は家康の長男のこと)と呼んでいます。

正室ならば「御簾中(ごれんじゅう)」「御前様(ごぜんさま)」「奥方様(おくがたさま)」と呼ぶのが通常です。

つまり、「家康様の奥さん」ではなく、わざわざ「家康の長男のお母さん」と呼んでいるため、この頃にはすでに家康と瀬名は夫婦ではなくなっていたのではないかとする説が存在します。

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瀬名姫の生涯と最期

家康が遠江の浜松城に拠点を移した際、瀬名は長男・信康とともに岡崎に残りました。

それから10年ほど後、瀬名は謀反などの疑いをかけられ、家康の命令によって処刑されてしまいます。

瀬名は、家康の家臣に自害するように言われ、それを拒んだためにその家臣によって首をはねられ、亡くなります。

享年は生年不明のためはっきりしませんが、おそらく38か39くらいだったとされています。

このとき息子である信康も自害しています。

瀬名と信康が亡くなることになったこの事件の発端は、信康の妻で織田信長の娘・徳姫が信長に送った訴状だとされています。

訴状を受け取った信長は、家康に対して信康を処刑するように命じました。

その訴状には、「瀬名が徳姫に讒言を行ったこと」「瀬名が唐の医者と不倫をしていること」「瀬名と信康が武田勝頼と内通していること」などが書かれていました。

徳姫と信康は仲が悪かったらしく、その母である瀬名とも折り合いが悪かったと言われています。

訴状の内容が真実かどうかもわかりません。

「信長が信康の処刑を命じ、家康がこれを聞き入れたという説」には不可解な点も多く、現在でも瀬名姫・信康の死は謎の多い事件とされています。

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徳川家康の妻は何人?

徳川家康の正室(正妻)は2人

瀬名姫と朝日姫(秀吉の妹)です。

側室は次の方々です。

  1. 西郡局(にしこおりのつぼね)
  2. お万の方(おまんのかた)
  3. お愛の方(おあいのかた)
    2代将軍・徳川秀忠の母
  4. 阿茶局(あちゃのつぼね)
    一番信頼されていたとされる。大坂の陣で交渉役を務める。
  5. お竹の方(おたけのかた)
  6. 下山殿(しもやまどの)
  7. お久の方(おひさのかた)
  8. 茶阿局(ちゃあのつぼね)
  9. お亀の方(おかめのかた)
    尾張徳川家の祖・義直(よしなお)の母
  10. お万の方(おまんのかた)※2人目のお万の方とは別人
    紀州徳川家の祖・頼宣(よりのぶ)水戸徳川家の祖頼房(よりふさ)の母
  11. お勝の方(おかちのかた)

分かっているだけでも11人の側室がいます。

正室2人とあわせると、徳川家康の妻は少なくとも13人いるということになります。

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家康の2人目の正室「朝日姫」

朝日姫は徳川家康2人目の正室です。

家康は瀬名姫を失った後、新たな正室を娶ることなく過ごしていました。

そこに、徳川家康を手懐けたい豊臣秀吉が目をつけます。

なんとか家康を家臣にしようと、アレコレ手を尽くした秀吉の策の一つが妹を嫁がせることでした。

朝日姫は豊臣秀吉の妹ですので、彼女はもともと農民と結婚していました。

その夫とは秀吉が強制的に離縁させ、家康に嫁がせます。

このとき家康は45歳、朝日姫は44歳でした。

家康と結婚した後の朝日姫についてはあまり知られていないかもしれませんが、彼女は結婚の3年後に病気で亡くなっています。

享年47。

秀吉による小田原の北条氏征伐がされていた時期です。

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まとめ

  • 瀬名姫は家康が今川と手切れとなったときにすでに離縁していた可能性がある
  • 瀬名姫は家康の命令によって処刑された
  • 処刑の理由は武田との内通や謀反だと言われているが、詳細は不明
  • 家康の妻は側室を入れると少なくとも13人
  • 瀬名姫の次の正室は朝日姫
  • 朝日姫は結婚して3年後に病気で亡くなっている

瀬名姫の事件に関しては、謎が多く、今も解明されていません。

一説には、「家康が今川を裏切ったことで瀬名姫が両親を失った、家康のもとに戻ってきてもその恨みが消えることなく、夫婦の仲は良くなかった、それがエスカレートして悲劇となった」というような解釈がされています。

大河ドラマでは非常に仲の良い家康と瀬名ですが、実際は、それほど仲良くなかったのかもしれません。

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