本能寺の変で織田信長が倒れると、織田家の家中で権力争いが始まります。
その結果はご存知のとおり、豊臣秀吉が権力を掌握し、天下人となります。
ですが、織田信長には子供がいました。
本来ならば、家臣であるはずの豊臣秀吉は、織田信長の子供に従うはずです。
彼らはなぜ豊臣秀吉に屈したのでしょう?
織田信長の子供は何人?
織田信長の子供は約20~30数人くらいいました。
史料によって子供の数が違うので、実際のところは分かりませんが、男子が12人ほど、女子が6~12人ほど、養子・養女が5~6人ほどいたようです。
意外と子沢山です。
信長の子供(男子)は、次のとおりです。
- 織田信正(庶子)※実在したかどうか不明
- 織田信忠(長男・嫡男)
- 北畠信雄(二男、北畠具房の養子)
- 神戸信孝(三男、神戸具盛の養子)
- 羽柴秀勝(四男、羽柴秀吉の養子)
- 織田勝長(五男、遠山景任・武田信玄の養子、のち離縁)
- 織田信秀(六男)
- 織田信高(七男)
- 織田信吉(八男)
- 織田信貞(九男)
- 織田信好(十男)
- 織田長次(十一男)
女子はこちらの人々ですが、詳細不明な人がほとんどで、生まれた順番もよく分かっていません。
- 相応院
- 徳姫(五徳)
- 秀子(藤)
- 玉泉院
- 報恩院
- 振
- 源光院
- 三の丸殿
- 月明院
信長の子どもたちの中で有名なのは、嫡男の信忠・次男の信雄・三男の信孝あたりです。
これは、父・信長が4男以下の子供をほとんど顧みなかったことから、彼らに活躍の機会がなかったことに由来します。
そこで、以下、次男・信雄、三男・信孝について詳しくまとめたいと思います。
信忠の情報は、別記事にまとめてあるので関連記事を御覧ください。
【関連記事:織田信忠が生き残ったらどうなった?】
織田信雄はどんな人?
織田(北畠)信雄は織田信長の次男です。
おそらく戦国時代や織田信長に詳しい人には「うつけ」として認識されている人物です。
信雄は、織田家と伊勢国・北畠氏との和睦のため、北畠具房の養子となり、北畠家の家督を相続します。
その後、北畠一族を誅殺。
北畠家が持っていた勢力を完全に掌握します。
その3年後、なぜか突然、信長に無断で伊賀国を攻め始めました。
そして、忍者の反撃にあってボコボコにされます。
これを受け、信長は激怒。
「親子の縁を切る」という書状が届けられました。
本能寺の変が起こると、兵を率いて明智光秀を討伐に出かけますが、近くまで来て戦わずに撤退。
戦後処理の清州会議で、信長の後継者になろうとしますが失敗。
その後、秀吉と組んで三男・信孝、柴田勝家らと戦って勝つと、三法師の後見役として安土城に入ります。
が、すぐに秀吉に追い出され、2人の仲は険悪に。
すると信雄は、今度は徳川家康に接近。
秀吉に対して宣戦布告し、「小牧・長久手の戦い」が始まります。
この戦いで家康は有利に戦いを進めますが、信雄は手ひどく攻め立てられ、家康に無断で和議を結んでしまいます。
大義名分を失くした家康も撤退。
これ以降、信雄は秀吉に臣従し、関ケ原では西軍について改易。
その後は豊臣秀頼に従っていたものの、大阪冬の陣直前に大坂を出ます。
その翌年、なぜか家康は信雄に領地を与えます。
信雄はその領地を子供に譲って京都に隠居、晩年を過ごしました。
隠居先で73歳まで生きたとされています。
織田信孝はどんな人?
織田(神戸)信孝は、信長の3男です。
が、実は次男・信雄よりも早く生まれていたという説も存在し、母親の身分の低かったため出生の報告が遅れたとも伝わっています。
信孝は、次男・信雄と同じく、伊勢国平定のために大名の養子となりました。
神戸具盛のという大名の養子となり、神戸三七郎を名乗ります。
その後、養父・神戸具盛と不仲になった信孝は、具盛を幽閉し強制的に隠居させます。
そのことに対して不満をあげた神戸家の旧臣たちを粛清。
信孝は神戸家を掌握しました。
その後は主に兄・信忠(長男)に従い、数々の戦に参戦します。
本能寺の変が起きた当日、信孝はちょうど四国へ遠征しようとしていたところで、大坂にいました。
京都からの知らせが届くと、彼の軍隊からは逃亡者が相次ぎます。
このため、信孝は京都近くにいたものの、明智光秀を討伐する力がありませんでした。
秀吉が中国攻めを切り上げてやってくると、共に明智と戦うことを決めます。
羽柴秀吉が明智光秀を倒した「山崎の戦い」の形式上の総大将は、この織田信孝でした。
その後、秀吉はだんだんと自分が天下人であるかのような態度を取り始めます。
これを不服とした信孝は、同じく秀吉の態度に不満をもっていた柴田勝家と連携。
秀吉と一戦交えますが、勝家は敗北し、北ノ庄城で自刃します。
頼みの綱だった柴田勝家を失った信孝は、やむなく降伏。
謀反の罪で兄・信雄から自害を命じられ、切腹して亡くなりました。
享年26。
信孝は、信長の家来の間で評判がよく、「清州会議」で信孝が後継者になるのではないかとウワサされた人物でしたが、秀吉には力及ばず、権力争いから脱落してしまいました。
信長の子供の名前の変化
ところで、織田信長のネーミングセンスをご存知でしょうか?
信長は、子供たちにつけた幼名が独特なことで一部では有名です。
誰にどんな名前をつけたのか見てみましょう。
- 奇妙丸(顔が奇妙だったから)→長男・信忠
- 茶筅丸(髪の毛が茶筅〈※お茶をたてる道具〉のようだったから)→次男・信雄
- 三七(3月7日生まれ)→三男・信孝
- 於次((おそらく)「…次!」)→四男・秀勝
- 御坊(おぼっちゃま)→五男・勝長
- 大洞(おおぼら・大嘘)→六男・信秀
- 小洞(こぼら・小嘘)→七男・信高
- 酌(母親の名前が「鍋」だから鍋から中身をすくいとる「酌子」が由来)→八男・信吉
- 人(おそらく名付けがめんどくさくなった?)→九男・信貞
- 良好(機嫌が良かった?)→十男・信好
- 縁(なにか良縁があった?)→十一男・長次
かなり独特のネーミングセンスです。
「人」て!
ただ当時は子供が亡くなりやすく、神仏や悪霊を今よりも信じていた時代です。
あえて変な名前をつけることで、子供の魂を連れて行かれないようにするため、という意味もありました。
よく子供に「◯◯丸」という名前がつけらるのは、悪霊などに「これは人間の子じゃなくておマル(※便器の)ですよ」とアピールするためだったとされています。
そうした習慣があった当時だからこそ、このような名前をつけたのでしょう。
まとめ
織田信長は正室・帰蝶(濃姫)との間に子供がいなかったため、子沢山のイメージは無いかもしれません。
けれど、実際は30人近く、少なくとも20人以上の子供がいました。
本能寺の変で信長・信忠が亡くなってしまい、織田家が力を失ったため、子どもたちは豊臣秀吉に臣従することになります。
このため、多くの信長の子供たちは、目立った活躍ができませんでした。
信長の子どもたちがどのような人生を送ったのか調べてみるのも面白いかもしれません。