日ソ不可侵条約の破棄とは何だったのかをわかりやすく

ソビエト連邦 政治・経済
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ロシアによるウクライナ侵攻を受けて、「日本とロシアの関係が気になる」という声があがっています。

日本とロシアはどういう歴史を歩んで来たのかということを確認するため、こちらでは第二次世界大戦時の「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」とその破棄について記したいと思います。

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日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)とは?

1941年4月25日、日本は当時のソビエト連邦と「日ソ不可侵条約(日ソ中立条約)」という条約を結びました。

主な内容は「相互不可侵」「一方が第三国に軍事攻撃された場合の他方の中立」というものです。

つまり、「お互いに攻撃しないこと」「他国がどちらかを攻撃して来てもそれに便乗しないこと」を約束したということです。

条約の有効期間は5年で自動延長の規定もありました。

ただし、ソ連側から「延長しない」という申し出があったので、自動延長の規定が適用されることはありませんでした。

ということは、この条約の有効期限は1946年4月25日です。

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日ソ不可侵条約の破棄

しかし、ソ連は日本に対して宣戦布告、その翌日に攻撃を開始します。

宣戦布告が1945年8月8日、攻撃開始が翌8月9日のことです。

条約の有効期間内の出来事ですので、ソ連側が条約を一方的に破棄したことになります。

この宣戦布告はソ連にいる日本大使に対して行われました。

しかし、その日本大使が東京へ連絡しようとすると、モスクワ中央電信局がこれを止めます。

そのためソ連の攻撃が行われた際には、日本側にはその情報が届いておらず、完全な奇襲攻撃となります。

同日に長崎に原子爆弾が落とされていますので、このソ連の奇襲攻撃のインパクトはあまり強くないかもしれませんが、実はこういったことが起きていました。

ソ連軍の侵攻は、日本が降伏した後も続き、9月4日にようやく終わりました。

なお、このときのソ連軍の最終目的は北海道の占領であったとされています。

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なぜ条約を破棄したの?

日本の敗色が濃厚になった1945年2月、アメリカ・イギリス・ソ連の間で密約が結ばれました。

「ヤルタ協定」と呼ばれる密約です。

簡単に言えば、「日本に勝ったら日本から領土を取り上げてソ連にあげるから、ソ連も日本と戦ってくれ」という内容の約束です。

これをソ連は了承し日ソ不可侵条約破棄に至ります。

条約を破棄したソ連の言い分としては、「日本が1941年7月に行った『関東軍特種演習』が背信行為にあたるから、条約はすでに日本側によって破棄されている」というものでした。

「関東軍特種演習」はソ連とドイツが戦っている最中に、日本が満州北部で行った軍事演習です。

この軍事演習によって、「ドイツ軍の動きに呼応して日本軍もソ連に攻め込むのではないかという懸念」がソ連に生まれます。

その結果、シベリア方面(満州の北)の軍を、モスクワに迫ったドイツ軍を迎え撃つための救援として派遣することができなかったという経緯があります。

このとき、実際に日本はソ連に攻め込むことも検討していたと言われます。

結果的に日ソ不可侵条約を破棄したのはソ連でしたが、日本側から条約を破棄していた可能性もあったということです。

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