大河ドラマ「どうする家康」の第1話目から登場し、主人公家康の兄のような存在として描かれていた今川氏真(演:溝端淳平さん)。
彼は、武田信玄と徳川家康の駿河侵攻により物語から脱落します。
しかし、そこで亡くなったわけではありません。
今川氏真はその後どうなったのでしょう?
今川氏真の最期と死因
史実では、今川氏真は77歳のときに亡くなっています。
徳川に攻められて掛川城を明け渡したのは、氏真が32歳のとき。
実はそれから40年以上も生き延びています。
死因ははっきりわかっていません。
ただ、年齢と当時の寿命を考えると、病気もしくは老衰だったのではないかと言われています。
武田・徳川の駿河侵攻のあとは?
では、掛川城を明け渡した後、今川氏真はどうなったのでしょう?
諸説ありますが、明け渡しの際、徳川家康と今川氏真、それに氏真の妻の実家である北条家の当主・北条氏康の3者の間で盟約が成立したとされています。
それによると、3者で武田信玄を駿河から追い払い、その後に再び今川氏真を駿河の国主とするという約束がされていたようです。
しかし、結果的に武田信玄を駿河から追い払うことは出来ず(家康は三方ヶ原でボコボコにされます)、今川家臣の多くが武田家に降伏するなどしたため、この約束は果たされることはありませんでした。
その後は妻の実家である北条家の庇護を受け、紆余曲折あって、最終的に徳川の家臣となります。
妻の糸(早川殿)はどうなった?
今川氏真の妻・糸(早川殿)は、氏真と行動をともにします。
最期は、今川氏真が亡くなる2年前、1613年に江戸で亡くなったとされています。
死因などは不明です。
武田に攻められて駿河を追われ、実家の北条氏のもとへ逃げると、それを知った糸(早川殿)の父・北条氏康は武田信玄に対して激怒します。
もともと武田信玄と同名を結んでいた北条氏康は、信玄との同盟を破棄して信玄のライバル・上杉謙信と同盟を組み直し、信玄と対立します。
糸(早川殿)はその戦いに巻き込まれないように、北条氏の本拠地・小田原の近くの「早川」という里に移り住みます。(これにより「早川殿」と呼ばれるようになります。)
が、その後まもなくして父・北条氏康が亡くなると、跡を継いだ北条氏政(早川殿の弟)は、武田家との同盟を復活させます。
この同盟を結ぶ際、北条は駿河を武田領と認めています。
このことにより、今川氏真が駿河の領主として復活するという望みは絶たれ、糸(早川殿)は夫・今川氏真とともにふるさとの相模国を離れ、徳川家康を頼るようになります。
今川氏真の徳川家家臣時代
あまり知られていないかもしれませんが、今川氏真は「長篠の戦い」にも参加しています。
長篠の戦いは、織田信長・徳川家康の連合軍VS武田勝頼の当時の天下分け目の決戦です。
このときにはすでに徳川家の家臣になっていたと見られています。
そして実は、長篠の戦いに先立ち、今川氏真は「父の仇」である織田信長と会っています。
しかも、信長の前で特技の蹴鞠まで披露しています。
どういう心境だったのでしょう?
残念ながら、このときの氏真の心情を表す記述はのこっていません。
長篠の戦いの翌年、氏真は家康によって「牧野城」の城主に任ぜられます。
が、わずか1年ほどで解任。
その後しばらく動向不明となります。
最終的に氏真は、1615年12月に江戸で亡くなったとされています。
現在の東京都杉並区に「今川」という地名が残っています。
そこは今川家の知行地であったとされ、現在もその地にある「観泉寺」というお寺に今川氏真と妻の早川殿(糸)は眠っています。
今川氏真の子孫は?
今川氏真が徳川家康の家臣となったため、今川氏真の子孫も代々徳川の家臣として存続します。
それも、身分の高い旗本として江戸時代が終わるまで家名を残しました。
明治維新後に今川氏は士族となり、名家の地位を継承します。
しかし、明治20年(1887年)、当時の当主・今川範叙氏が亡くなったことによって、今川氏の嫡流は途絶えました。
まとめ
- 今川氏真は77歳のときに江戸で亡くなっている
- 死因は不明(病死もしくは老衰と推定)
- 妻の糸(早川殿)は氏真が亡くなる2年前に江戸で亡くなっている
(※生年不明のため亡くなった際の年齢も不明) - 氏真と糸は駿府陥落後も基本的に行動を共にしていた
- 今川氏真は徳川家康の家臣となり、子孫はその地位を明治時代まで受け継いだ
今川氏真は、戦国武将としては結構珍しい生き方をしたのではないかと思います。
大河ドラマでも一度離脱しても、再登場の可能性が十分考えられます。
もしかしたら、家康(松本潤)がピンチになったときに、兄貴分だった氏真(溝端淳平)が助けに来る、という熱い展開も用意されているのかもしれません。