徳川家康は日本史上最も著名な武将の一人であり、彼の生涯と功績は数多くの人々によって尊敬されています。
戦国時代を生き抜き、最終的には日本を統一し江戸幕府を築いた徳川家康の最期は、彼の偉大なる生涯を知る上で欠かすことのできない情報です。
この記事では、徳川家康がいくつの歳で亡くなり、どのような死因で最期を迎えたのかについて探求していきます。
徳川家康の最期→年齢は何歳?
徳川家康は、元和2年(1616年)4月17日巳の刻(現在の午前10時ごろ)、徳川家康公は駿府城において亡くなりました。
当時の年齢は75歳(満73歳4か月)でした。
当時の武士の平均寿命が40歳前後と言われているなか、75歳はかなり長生きした方です。
ちなみに、織田信長の享年は49、豊臣秀吉の享年は62です。
徳川家康の最期→死因は何?
家康は、元和2年(1616年)1月21日、鷹狩に出た先で病のために倒れたとされています。
亡くなったのは、その約3か月後です。
死因については、「食中毒説」が長い間一般的に考えられてきました。
鯛をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらを食べたことによる食中毒だとする説です。
しかしながら、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食であり、死去したのは4月17日。
日数が経過しすぎていることから、食中毒を死因とするのは少々無理があります。
それに代わって主流となっているのは、胃癌の説です。
『徳川実紀』(※江戸幕府の公式史書)には、
家康の病状が「急速に痩せていき、吐血や黒い便、そして腹にできた大きなしこりは、手で触れば確認できるほどだった」
と記されており、このような症状が胃癌患者に多く見られることがその根拠とされています。
なお、後代、江戸城内では天ぷらを料理することが禁止されました。
これは家康の死因が天ぷらによる食中毒であるために生まれた禁忌であるという説明がなされることもあります。
しかし、実際には、大奥の侍女の一人が天ぷらを料理していて火事を出しかけたために禁止されたものだとする説が有力です。
まとめ
徳川家康は、常に健康管理に気を配り、食事においても質素さを念頭に置き、栄養バランスにも留意されていたと伝えられています。
このような厳格な生活態度のおかげで、当時の平均寿命を大幅に上回る75歳の生涯を送ることができたと考えられています。
一方で、徳川家康は好奇心旺盛で、定期的に美味しい食べ物を楽しむこともありました。
そして、徳川家康が亡くなったのは、そうした贅沢な食事の中で食べた天ぷらが原因だという説が長い間一般的に広まっていったようです。
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