大阪冬の陣のきっかけとして、方広寺の鐘銘事件という出来事があります。
この事件について、できるだけわかりやすくご紹介したいと思います。
方広寺鐘銘事件とは?
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)とは、大坂の陣の引き金になったと言われる事件です。
ごく簡単にいえば、「豊臣秀頼が父・豊臣秀吉の供養のために再建したお寺の鐘に、家康が文句を言った」という事件のことです。
このお寺の鐘には、「国家安康」「君臣豊楽」という文字が刻まれていたとされます。
この文字に対して家康は、
- 「国家安康」は、家康の名前を「家」と「康」に分断して家康を呪詛しているのではないか?
- 「君臣豊楽」は、豊臣を君主として楽しむという底意が隠されているのではないか?(徳川の天下を認めていないという意味ではないか?)
と怒り、豊臣方を問い詰めます。
豊臣方は弁明のために片桐且元という宿老を派遣しますが、家康は且元と面会しませんでした。
その後、且元は大阪城の秀頼のもとに戻り、家康の怒りを収めるための案を進言します。
- 秀頼を江戸に参勤させる
- 淀殿を人質として江戸に置く
- 秀頼が国替えに応じ大坂城を退去する
且元は、この中から1つを採用するように進言しましたが、どれも豊臣方としては受け入れられるものではありませんでした。
それどころか且元は、徳川方の内通者だと疑われ、命を狙われます。
この報告を聞いた家康は、
「豊臣方は交渉役を殺そうとした」
↓
「家康の言う事を無視し、敵対する意志を示した」と判断し、諸大名に出兵を命じます。
こうして大阪冬の陣が始まります。
方広寺鐘銘事件の真相は?
事件の発端となった方広寺の大仏・大仏殿は、焼失した東大寺に代わりに豊臣秀吉が建立しようとしていたものです。
この計画は地震により頓挫しました。
通説によれば、家康が秀頼に父・秀吉が果たせなかった方広寺大仏・大仏殿の再建を提案し、それを豊臣方が受け入れて再建工事が進められたとされています。
そして、それは豊臣家の財政を困窮させるための家康の策略だと言われています。
そのうえで、なにか落ち度をみつけて言いがかりをつけ、戦を仕掛けるという作戦であったとも言われます。
しかし、この再建工事の費用を負担したのは確かに豊臣家ですが、徳川もかなりの労力を注いでいたとされます。
徳川にとっても東大寺の代わりとなるこの再建工事は重要なもので、家康お抱えの大工がこの工事を取り仕切っていました。
落成供養(※寺院・神社などの新築・改築の工事が完了したことを祝って行なう儀式)には家康も参加する予定だったとされています。
そして後述のように、鐘銘文に関しても言いがかりではなく、下手をしたら豊臣方が本当に喧嘩をふっかけてきていた可能性もあります。
もしかしたら、この事件は最初から画策されたものではなかったのかもしれません。
言いがかりだったのか?
工事が完了し、落成供養を待つ段階に至って、家康側から次々とクレームが入ります。
まず、家康が派遣し、工事を取り仕切った大工である「中井正清」の名前が棟札(※工事の記念として建築年月日、建築主、大工の名前などを書く札)に記されていません。
つぎに、鐘銘文に関して、家康が求めていた「東大寺の簡素な鐘銘を踏襲する」という要求が満たされてないことを非難します。
前例に反して長々と文言を連ねたうえに、金色の文字を入れていたのでそれが不快だとしてクレームを入れたのです。
それから家康は、その長い鐘銘文を僧や学者に解読させます。
すると、例の「国家安康」「君臣豊楽」という文字が見つかり、大きな問題へと発展して生きました。
そしてこの「国家安康」「君臣豊楽」という文字、どうやら豊臣方が意図的に入れたようなのです。
方広寺と同じような状況下で造られた東寺金堂の鐘銘には、「国家太平 臣民快楽」と記されていました。
銘文を選んだ清韓という僧は、家康に対する祝意として諱を「かくし題」として取り入れたと説明しています。
当時の諱(実名)の常識から考えると、「家」「康」という文字を分けて記したのは悪意がなかったとしても無神経で、呪詛を疑われてもしかたのない軽挙でした。
対して「豊」「臣」は「君臣豊楽」といい意味で使われています。
家康から見れば、「喧嘩を売られた」と考えてもおかしくありません。
こうしてみると、通説で言われているように、「ただの言いがかり」ではなかったのかもしれません。
まとめ
方広寺鐘銘事件を発端として大阪冬の陣が起きます。
その最大のきっかけは、「国家安康」「君臣豊楽」という文字であり、「家康を呪い、豊臣を繁栄させる意図がある」と徳川方が豊臣方に対して侘びを求めたことが引き金となりました。
家康が豊臣家を滅ぼすために戦を仕掛ける口実として仕組まれた事件だと言われていますが、豊臣は豊臣で意図的に「国家安康君臣豊楽」の文字を刻んだようです。
もしかしたら、豊臣方にも喧嘩を仕掛ける意図があったのかもしれません。