徳川家康の側近・本多正信。
その息子である本多正純は、徳川家康、徳川秀忠の側近として活躍します。
しかし、家康・正信の没後は、不遇とも言える人生を歩みます。
この記事では、本多正純がどういう人生を歩んだのかについて紹介したいと思います。
本多正純が改易になった理由は?
家康と正信が連続して死去した後、正純は江戸に移動して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、のちに年寄(老中)にまで昇進しました。
ただし、先代からの側近であることを頼みにし、権力を誇示するようになりましたが、やがて秀忠や秀忠の身近な者たちから妬まれるようになりました。
慶長19年(1619年)10月、福島正則の処分後、亡き家康の遺命として、下野国小山藩の5万3,000石から宇都宮藩の15万5,000石に加増されました。
これにより、周囲からさらなる妬みを買うこととなりました。
ただし、正純自身は、自身が大した武功もないにも関わらず、過分な知行を受けることとなったことを心苦しく思っており、また政敵の怨嗟や憤怒も考慮し、加増を固辞していたようです。
幕府内では幕僚の世代交代が進んでいましたが、正純氏は変わらずに、重要な地位にありました。
ところが、彼の後ろ盾である家康公や父の正信氏が亡くなり、秀忠の側近である土井利勝氏らが台頭してきたことで、正純氏の影響力や政治力は弱まっていきました。
元和8年(1622年)の8月、最上氏が改易された際、正純は山形城の引き継ぎに派遣されました。
正純は無事に城を受け取りましたが、数日遅れで派遣された伊丹康勝と高木正次は、正純を糾弾する使者として後を追っていました。
鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などにより、正純には11か条の罪状嫌疑が突きつけられました。
正純は最初の11か条については明確に答えましたが、追加の3か条については適切な弁明ができませんでした。
この事がきっかけで、正純は改易されることになります。
なお、追加の3カ条とは、「城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと」「鉄砲の無断購入」「宇都宮城修築で許可なく抜け穴の工事をしたこと」の3つだとされています。
吊り天井事件とは?
秀忠は家康の七回忌に日光東照宮を訪れ、宇都宮城で1泊する予定を立てていました。
そのため、正純は城の建設や御成り御殿の建設を進めました。
秀忠が日光に向かうと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母である加納御前から「宇都宮城の建設に問題がある」という密告がありました。
真偽は後日調べることにして、秀忠は「御台所が病気である」との知らせが届いたと称して、予定を変更し、宇都宮城を通り過ぎて壬生城に宿泊し、江戸城に戻りました。
その後、本多正純は「宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策した」と疑われました。
これが吊り天井事件です。
なお、吊り天井とは、天井を綱などでつり下げておき、標的が部屋にいるときにその綱を切って落とし、標的を押しつぶして殺害する装置のことです。
この正純謀反の噂には、何にも証拠がありません。
後の調査で秀忠自身もそれは認めています。
この事件は、正純の存在を疎ましく思っていた土井利勝らの謀略であったとも、加納御前の恨みによるものともされています。
まとめ
糾弾を受けた後、本多正純は、先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽国由利(現在の由利本荘市)に5万5,000石を与えるという代命を受けました。
しかし、謀反を働いたわけではない正純は、その5万5000石を固辞しました。
すると、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となってしまいます。
正純の身柄は久保田藩主の佐竹義宣に預けられ、出羽横手への流罪とされました。
後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、寛永13年(1637年)3月、73歳で秋田横手城の一角で寂しく生涯を終えたと言われています。