徳川家康の最後の子供と最後の側室は誰で何歳のとき?

徳川家康の最後の子供と最後の側室は誰で何歳のとき? 映画・ドラマ
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徳川家康には多くの側室と子供たちがいました。

その中で、「最後の側室」「最後の子供」にスポットを当ててみたいと思います。

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徳川家康の最後の子供は誰?

家康の一番最後の子は、5女の市姫だとされています。

市姫が生まれたのは慶長12年1月1日(1607年1月28日)。

家康が66歳のときに生まれた子です。

母親は側室の「お梶の方(英勝院)」という、江戸城代の遠山氏(※異説あり)の血を引く女性です。

「市姫」という名前は、織田信長の妹で絶世の美女と言われた「お市の方」のような美しい女性になって欲しいという願いを込めて付けられたと言います。

この市姫は、伊達政宗の嫡男・虎菊丸(※のちの忠宗)と婚約していましたが、慶長15年(1610年)2月12日、3歳という若すぎる年で亡くなっています。

亡くなった原因は、野いちごを摘んでいた際に、毒虫に刺されたことだと伝わっています。

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徳川家康の最後の側室は誰?

最後に側室になったのが誰なのか?というのは不明ですが、最後まで生き残った側室は、万治3年(1660)に80歳で亡くなった「清雲院」です。

この時の江戸幕府将軍は4代目の徳川家綱。

清雲院は家康の側室唯一の生き残りとして大切にされていたそうです。

清雲院は、家康より40歳近く年下で、子供である徳川秀忠よりも2歳年下であったとされています。

名を奈津(夏)といい、伊勢国北畠家の旧臣であった長谷川藤直の娘で、慶長2年(1597)、17歳のとき、家康に召されたといいます。

このとき家康は56歳でした。

その後、清雲院との間に子はできませんでしたが、家康が亡くなるまでの約20年間、家康の側室として寵愛を受けました。

「大坂冬の陣」においては、茶臼山(※家康の本陣)まで同行し、翌年の「大坂夏の陣」では伏見で留守居をしたと伝わります。

家康からの信頼は大変に厚かったようです。

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まとめ

徳川家康には正室2人(築山殿、朝日姫)の他、20人ほどの側室がいたとされています。

子供は16人とされています。

ただ、落胤説がささやかれる人物が何人かいたり、愛妾がいたりするようなので、本当のところはわかりません。

なお、家康の長男の松平信康は家康が18歳の時に生まれた子、(一応)末っ子の市姫が生まれたときには66歳。

史実上の16人兄弟は、最大で48歳差の兄弟姉妹ということになります。

40歳差の結婚もすごいですが、48歳差の兄妹も珍しいですね。

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