大河ドラマ「どうする家康」では、主人公・徳川家康(演:松本潤さん)は、織田信長(演:岡田准一さん)に振り回されてばかりいます。
織田信長と徳川家康は軍事同盟を結んだ間柄でしたが、実際の2人の関係はどのようなものだったのでしょう?
織田信長と徳川家康の関係
織田信長と徳川家康は、清洲同盟という軍事同盟を結んだ同盟者です。
最初は織田・徳川両者とも対等な関係での同盟でした。
立場に変化があったのは、武田氏と織田・徳川連合軍が戦った「長篠の戦い」の頃からです。
この頃、武田に対して悪戦苦闘を続ける家康に対し、信長は西へどんどんと支配地域を拡大しており、両者の力の差は歴然となっていました。
それに、「長年の共通の敵」であった武田が大きく力を失ったこともあり、共通の利害がなくなります。
これらのことから、信長から見れば、「家康がいてもいなくても自分は天下を取ることができる」という状態になったため、家康の立場が弱くなっていきます。
その結果、実質的に家康は信長の臣下のような立場となります。
家康が「伯父の水野信元」、「妻の築山殿(瀬名)」、「息子の信康」を処罰したのも、信長との関係を優先してのことだと言われています。
織田信長と徳川家康の出会いは?
幼い頃、織田家の人質となった徳川家康と織田信長が出会って仲良くなった、という伝説は有名です。
しかし、このことを示す史料はありません。
家康は6歳のとき、今川への人質として駿府に送られようとしていました。
その道中、今川家臣の裏切りにより、家康は今川家と敵対していた織田信秀のもとへ送られます。
以降、家康は人質交換で駿府に行くまでの2年間、織田家家臣の屋敷で過ごしました。
この2年間の間に信長と出会って知り合いになったと言われています。
確かに、2年も滞在していたら、出会っていた可能性は大いにありますが、残念ながらそのことを示す史料はなく、子供の頃に2人が出会っていたのかどうかは不明です。
織田信長と徳川家康(プラスα)の年齢差
織田信長と徳川家康の年齢差はどのくらいだったのでしょう?
西暦でいうと、織田信長は1534年生まれ、徳川家康は1543年生まれです。
2人の年齢差は9歳差ということになります。
ちなみに豊臣秀吉は1537年生まれ、明智光秀は生年不詳ですが「1516年、1528年」の2つの説が有力です。
この4人を年齢順にならべると、
【明智光秀→(18歳差もしくは6歳差)織田信長→(3歳差)豊臣秀吉→(6歳差)徳川家康】
と、こういうふうになります。
織田信長に怒られまくっているイメージが強い明智光秀ですが、織田信長より年上の可能性が高いと言われています。
織田信長と徳川家康の仲
「どうする家康」では、織田信長は徳川家康のことを「唯一の友」だと思っていました。
実際の2人の仲はどうだったのでしょう。
前述のとおり、幼少の頃に知り合った幼馴染という説もある2人ですが、実際はどうだったのかわかりません。
それよりも、信長と家康の生まれた「織田家と松平家」は、彼らの父の代の頃は宿敵関係にありました。
このため、両家とも清州同盟に反対する家臣が多く、桶狭間の戦いから清洲同盟の締結までに2年もかかっています。
その間、両者の間では小競り合いも起きています。
それでも織田は美濃、徳川は駿河方面に強大な敵を抱えていたため、両者の利害は一致し、同盟を結ぶに至りました。
同盟を結んで以降の信長と家康の関係は、少なくとも表に現れる分には悪くなかったようです。
信長の力が大きくなっていくと、家康は低姿勢を取りつつ同盟関係の維持に努めています。
結果、清洲同盟は織田信長が本能寺で討たれるまで続きました。
裏切り裏切られるのが当たり前のこの時代、20年間も同盟を維持し続けたのは異例のことと言えます。
特に、隷属的な立場となりながらも、信長に忠義を貫いた家康の態度は、後に内外の名声を高めることにつながり、それが天下取りに繋がったと言われています。
まとめ
信長と家康は物語などの影響で、幼馴染のイメージが強いですが、実際には幼少期に出会っていたという記録はありません。
父親までの世代は、織田家と松平家は仲が悪く、家康を織田家の人質に取られた松平広忠(家康の父)は、織田家と関係を深めようとはせず、家康を見捨てて今川への従属を貫きました。
仲の悪かった織田家と松平家ですが、清洲同盟が結ばれてからは一蓮托生という関係になっていきます。
一度結ばれたこの同盟は、20年間破られることなく、両者の関係を強固なものにしました。
織田信長と徳川家康は、幼馴染ではなかったかもしれませんが、同じ志をもった大事な仲間同士だったのかもしれません。