大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、主人公・北条義時の父「北条時政」、母(義理)「牧の方(りく)」が良いキャラクターとなって物語を盛り上げてくれています。
ただ、義時よりも先に亡くなった北条時政とりくはいずれドラマから退場することになるのですが、この2人の最期はどのようなものだったのでしょうか?
北条時政の最期
北条時政は、10年間ほどの隠居ののち、故郷の伊豆で亡くなっています。
死因は「腫物」とありますので、なんらかの病気で亡くなったものと思われます。
享年は78歳でした。
息子・北条義時、娘・北条政子と対立し、幕府の中で孤立無援となって追放されますが、「鎌倉殿の13人」でありがちな「隠居させて→暗殺」のパターンとはなりません。
子供たちとの対立の詳細に関してはこちらをご覧ください。
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北条時政は1代で北条家を鎌倉幕府の権力者にまで押し上げましたが、「畠山重忠の乱」や「牧氏の変」のこともあり、子孫からも評判がよくありません。
子孫が祭祀を行う際は、時政の息子・北条義時を初代として数えられるため、時政は外されることがありますし、実の孫にあたる3代執権・北条泰時は時政に対して仏事を行いませんでした。
北条泰時は事あるごとに先祖や鎌倉幕府を創設した源頼朝を参詣しており、先祖をまつる年中行事も欠かさなかったとされていますので、時政の行動に対する泰時の怒りはよっぽどだったのでしょう。
牧の方(りく)の最期
牧の方(りく)も夫・北条時政とともに伊豆国へ流罪となっています。
時政が亡くなるまでは一緒にいたようですが、時政死後に京にいる娘夫婦のもとへ身を寄せます。
そこで亡くなるまで贅沢な暮らしをしたようです。
いつ、どのように亡くなったのかについてはわかっていません。
「明月記」の記述から予想すると、1229年4月22日に亡くなったことになります。
夫・時政の死から約14年後です。
時政とは年がかなり離れていたと言われていますが、ドラマ同様夫婦仲は良かったようです。
ただ、牧の方(りく)の言葉が発端となって時政が息子たちと対立し、最終的に時政は「最高権力者→強制的に隠居」の道を辿っています。
そして時政は亡くなった後ですら、謀反人として子供達やその子孫からも嫌われてしまいます。
そのことを考えながら京で贅沢三昧な晩年を過ごした牧の方(りく)を見ると、時政が少し不憫にも思えてしまいます。
北条義時・北条政子との確執
北条義時・北条政子と北条時政・牧の方(りく)の対立は、北条政範の死に始まり「畠山重忠の乱」「牧氏の変」へと続きますが、実はもっと前から時政と義時には確執があったという見解もあります。
源頼朝がまだ平家を討伐するより前に「亀の前事件」という事件が起こりました。
これは簡単に言うと、源頼朝の浮気相手を北条政子がボコボコにしたという事件です。
このとき北条政子は、牧の方(りく)の兄である「牧宗親(まきむねちか)」に命じて浮気相手の亀の前が住んでいた家を壊しています。
この事件を知った源頼朝は激怒。
実行犯の牧宗親を叱責し、髻(もとどり)を切って辱めました。
牧宗親は泣いて逃げたとされています。
すると今度は、これを知った北条時政が激怒します。
一族を率いて伊豆国へ帰ってしまいました。
このとき、北条義時は時政に従わず、鎌倉に留まりました。
父の意向に従わず鎌倉に残ったことで、頼朝は義時のことを称賛しています。
そしてその後、「吾妻鏡」の記述が途切れます。
「吾妻鏡」にはこのように何か所か欠落がみられます。
ですが、その欠落は後の時代に紛失したものではなく、最初から書かれていなかったものとみられています。
「吾妻鏡」は北条氏の編纂なので、北条氏に不利になるようなことは極力排除する傾向にあります。
ということで
- 時政は頼朝に対して怒り、伊豆へ帰ってしまった。
- しかし、義時は時政に従わず、(時政の怒りの対象となっている)頼朝に褒められた。
- その後、もしかしたら北条氏にとって記録に残したくない出来事があったかもしれない。
と考えることができ、北条親子の間に何かあったのかもしれません。
北条時政はいつの間にか鎌倉へ戻って来て普通に出仕しているので、どうということはなかったのかもしれませんが、もしかしたらこのころから北条時政と北条義時の間になんらかの確執が出来ていた可能性があるという説のご紹介でした。