大河ドラマ「どうする家康」に、主人公・徳川家康からいつも名前を間違われる夏目広次(なつめひろつぐ)という家臣がいます。
家康がいつも名前を間違って呼ぶのは、ある理由があります。
詳しくはこちらの記事に書いていますので興味のある方は御覧ください。
この記事では忠臣・夏目広次の詳細をお話したいと思います。
夏目広次の死因と最期
夏目広次の死因は戦死です。
具体的には、三方ヶ原の戦いで討ち死にしてしまいます。
「三方ヶ原の戦い」というのは、武田信玄と徳川家康の戦いで、徳川家康が完膚なきまでに叩き潰された戦です。
この戦で徳川家康は危うく討ち死にするところでした。
それほどまでに追い詰められた家康を救ったのがこの夏目広次です。
三方ヶ原の戦いでの夏目広次の働き
甲斐の武田信玄が徳川領に侵攻を開始すると、徳川家康は当時の本城である浜松城に立てこもり、籠城戦の準備をします。
しかし、武田信玄はそんな徳川家康を完全無視。
浜松城を素通りして、尾張の方角へ侵攻を続けます。
これを知った家康は、軍を率いて武田軍の後を追います。
武田軍が坂を下るときに後ろから奇襲をかけて武田軍に痛手を負わせようと考えての出撃です。
しかし、これが武田信玄の罠でした。
家康が三方ヶ原という場所につくと、武田信玄はその先の坂を下るどころか、陣形を敷いて家康を待ち構えていました。
準備万端の戦国最強軍団と真正面からぶつかることになった徳川軍は、散々に蹴散らされます。
わずか2時間ほどで徳川軍は敗北し潰走。
家康自身も追い詰められてしまいます。
家康の身代わり
この戦で夏目広次は、浜松城の留守を預かっていました。
家康が武田軍を奇襲しようと出陣していったときに、夏目広次が家康の代わりに浜松城に残ったのです。
しかし、味方が敗色濃厚なことに気づいた夏目広次は、城を出て家康の救出に向かいます。
首尾よく家康と会えた夏目は、家康に退却を進言しますが、このとき家康は覚悟を決めており、討ち死にするつもりで突撃しようとしていました。
もはや説得は無理だと悟った夏目は、ムリヤリ家康の乗っていた馬の向きを変えて、刀のみねで馬を叩きます。
驚いた馬は、そのまま武田軍と逆の方向に走り出しました。
そして夏目は、自ら「徳川家康」を名乗り、武田軍の方に突撃を仕掛けます。
その後、夏目を家康と勘違いした武田軍の追手とぶつかり、奮戦。
壮絶な討ち死にを遂げました。
夏目の決死の身代わりもあり、家康は人生最大の危機からなんとか脱出します。
主君の代わりに死ぬために城から出てきたという、夏目広次の伝説的な忠臣エピソードが三方ヶ原の戦いには残っています。
夏目広次の名前
ところで、「どうする家康」で家康はいつも夏目広次の名前を間違えていました。
その理由は、「夏目の名前が、家康の幼い頃の記憶と違っていたから」というものでした。
家康の記憶では夏目は「夏目吉信(なつめよしのぶ)」という名前でした。
本来は、この「夏目吉信」という名前が本名のようです。
ただ史料には「広次」という名前で記載されており、「広次」の名前の方が有名になった結果、今では一般的に「夏目広次」の名前で呼ばれています。
夏目漱石は夏目広次の子孫?
そういう噂が存在します。
ただ、夏目漱石が夏目広次の直接の子孫であるというわけではないようです。
そもそも、この噂が出た背景に、夏目漱石自身が夏目氏の子孫を名乗っていたということがあげられます。
しかし、漱石は「夏目氏」の子孫を名乗っただけで、「夏目広次」の子孫を名乗っていたわけではありません。
夏目漱石の本名は「夏目金之助」といい、たしかに「夏目」の一族です。
そして夏目家の系図によると、夏目氏は夏目国平(なつめくにひら)という鎌倉時代の武士が初代で、夏目漱石も夏目広次もその人の血を引いていることになります。
ただし、この系図によれば、夏目漱石の先祖は武田家の家臣でした。
ですので、三方ヶ原の戦いの際は、夏目漱石の先祖の夏目家と、夏目広次とは敵同士だったようです。
まとめ
- 夏目広次は三方ヶ原の戦いで家康の身代わりになって討ち死にした
- 本名はおそらく「夏目吉信(なつめよしのぶ)」
- 夏目漱石は、夏目広次の子孫ではないが、先祖を同じくする同族
夏目広次の活躍は語り継がれており、「どうする家康」の前半の山場にもなりそうです。
基本的に大河ドラマでは地味な役どころですが、武田信玄との戦では大活躍するので注目したいところです。