徳川家康に仕えた高名な僧侶に「天海」・「金地院崇伝(以心崇伝)」という人物がいます。
それぞれ有名な僧ですが、彼らは一体何をしたどんな人物なのでしょう?
また、「明智光秀は山崎の戦いのあとに生き延びて、僧侶となり、徳川家康の側近となった」という噂がささやかれることがあります。
この噂は本当なのでしょうか?
金地院崇伝とは?
金地院崇伝(以心崇伝)は、臨済宗の僧です。
徳川家康のもとで江戸幕府の法律の立案・外交・宗教統制を一手に引き受け、江戸時代の礎を作ったとされる人物です。
江戸幕府が諸大名の統制のために制定した基本法である「武家諸法度」はこの金地院崇伝が起草したと伝わっています。
大坂の陣の発端にもなった方広寺の方広寺鐘銘事件にも関与し、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けたのは崇伝とされる説が広まっています。
しかし、近年の研究ではこの説に否定的な意見もあがっています。
国師日記(※金地院崇伝の書いた日記)には豊臣家の家臣・片桐且元に宛てた書状に、家康から諮問がありこの問題を初めて知ったと書いてあります。
つまり、崇伝ではなく、家康の方が先に「国家安康君臣豊楽」を問題視したようなのです。
その後、取り調べは崇伝がしており、釈明に訪れた片桐且元に対しては、鐘銘問題ではなく牢人召集の真意を詰問しています。
天海とは?
天海は、天台宗の僧です。
徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与しました。
定かではありませんが、100歳以上の長命であったと言われます。
若い頃比叡山延暦寺で学んでいたとされ、比叡山焼き討ちに合って甲斐国に移ったともいわれています。
その縁なのか、後に比叡山延暦寺の再興にも関わっています。
主に朝廷との交渉役は、この天海が担っていたようです。
天海に関しては、高名な僧であるにも関わらず、その前半生がほとんど謎に包まれています。
正体が明智光秀だと言われているのは誰?
天海にそういった噂があります。
フィクション等でも採用され、広く知られていますが、信憑性はかなり低いとされています。
天海は高名な僧であるにもかかわらず前半生は謎に包まれており、様々な説が唱えられてきました。
明智光秀が天海となったという説もその一つですが、いつ頃唱えられだした説かも定かではありません。
以下に、「天海=明智光秀」だとする説の根拠と言われるものをあげます。
明智光秀・本能寺の変後の生存説
明智光秀は山崎の戦いの後に討たれたとされていますが、山崎の戦い以降に光秀が存命していたとする説や伝承がいくつかあります。
しかし、これらの説は、光秀が天海になったとまではいっていません。
天海と明智光秀の関係を窺がわせる根拠
同一人物説の根拠とするものには以下のようなものがあります。
こうやって見ても、どれも「天海=明智光秀」だとするには少し根拠が弱いようです。