徳川家康の家臣の中で特に活躍した重臣は「徳川四天王」と呼ばれています。
「この重臣4人の最期はどうなったのか?」という視点で記事をまとめてみたいと思います。
酒井忠次の最期と死因
徳川四天王の筆頭と言われる酒井忠次は、1596年に亡くなっています。
関ヶ原の戦いの4年前です。
死因は不明ですが、恐らくは病死であったと思われます。
享年70。
亡くなる8年ほど前、長男に家督を譲って隠居しています。
このときすでに眼病を患い、ほとんど目が見えなかったと伝わっています。
本多忠勝の最期と死因
本多忠勝は1610年、63歳で亡くなっています。
おそらく病死です。
亡くなる数年前に家康に隠居を申出ましたが、家康はそれを思いとどまるように説得しています。
結局、本多忠勝は亡くなる1年ほどまえに隠居しました。
亡くなる数日前、小刀で持ち物に名前を彫っていたところ、手元が狂ってかすり傷を負いました。
戦場でかすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝です。
「本多忠勝も傷を負ったら終わりだな」とつぶやき、数日後に亡くなったとされています。
榊原康政の最期と死因
榊原康政は病気で亡くなったとされています。
1606年、59歳でした。
死因は細菌感染症の類だったようです。
個人的な武勇よりも指揮官として優秀な武将だったようです。
井伊直政の最期と死因
井伊直政は関ケ原の戦いの1年半後、佐和山城で亡くなっています。
よく言われているのが、関ケ原の戦いで脚に大怪我を負っため、その怪我がもとになって感染症を引き起こし亡くなったとする説です。
島津の軍隊にほぼ単騎で追い打ちをかけ、反撃にあって落馬したと言われています。
井伊直政は「人斬り」と呼ばれていたり、「赤鬼」と呼ばれたり、自分にも他人にも厳しい人物だったとされています。
まとめ
不明な部分もありますが、「徳川四天王はほぼ病死」で亡くなっていると言えます。
戦場では数多くの敵をなぎ倒してきましたが、さすがに病には勝てなかったようです。