豊臣秀頼の妻で徳川家康の孫である「千姫」。
彼女が大阪夏の陣の後、どのような人生を歩んだのか、簡単にご紹介します。
千姫の最期
千姫は、「大阪夏の陣」の約50年後、寛文6年(1666年)2月6日、江戸で亡くなります。
享年は70。
死因は肺炎と言われています。
晩年は江戸に住み、弟である3代将軍・徳川家光を大奥の実力者として支えました。
優しく芯の強い性格で、祖父・家康、父・秀忠から可愛がられ、弟・家光からも大きな信頼を得ていたようです。
千姫の「大阪夏の陣」のその後
大阪夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出されました。
その後、桑名藩主・本多忠政の嫡男である本多忠刻と再婚。
この時のエピソードとして、このような話が伝わっています。
徳川家康が、孫娘である千姫を助けるために、家来に「千姫を救出できる者には、千姫を妻に差し上げよう」と約束しました。
そして、坂崎直盛という武士が燃える大阪城から千姫を救出し、家康のもとに届けました。
しかし、千姫は救出の際に顔に火傷を負った坂崎を受け入れられず結婚を拒絶。
その後、江戸へ送り届けられる途中で、本多忠刻に一目惚れし、家康は千姫の気持ちに従い、本多忠刻との結婚を許しました。
結婚に不満を抱いた坂崎直盛は、千姫の輿入れの際に千姫を奪う計画を立て、処刑されたという話です。
千姫事件と呼ばれるエピソードですが、坂崎さんが結構可哀想です。
本多忠刻と結婚した翌年、夫の本多家が播磨国姫路に移封になったので、千姫は姫路城へ移ります。
ここで約10年ほど過ごしますが、その間に生まれた子供のうち一人が早世、さらに夫・本多忠刻も31歳という若さで結核にかかり、亡くなってしまいます。
その後は、江戸城に入り、大奥で弟である3代将軍・徳川家光の側室の子供の世話をしたり、また、夫と別れたい女性を支援するための縁切寺・「東慶寺」(神奈川県鎌倉市)で女性のために奉仕したと伝わります。
千姫の子孫は?
千姫と豊臣秀頼の間には子はできませんでしたので、2人の血を引く子孫というのは存在しません。
ただ、千姫と2番めの夫・本多忠刻との間に生まれた「勝姫」という姫がいます。
この姫が池田光政という大名と結婚します。
詳細は長くなるので割愛しますが、この2人の間に生まれた子の子孫をたどると、江戸幕府最後の将軍・徳川慶喜に繋がります。
千姫は姫路城の主になった?
姫路城には化粧櫓と呼ばれる建物があります。
これは、本多家が姫路城に入る際に千姫のために建てられたものだと言われます。
千姫は結婚する際、10万石の化粧料(※結婚に際して妻が持参するお金)を与えられたと伝わります。
この10万石の化粧料を財源として増築された千姫夫婦の居住スペースが化粧櫓だと言われています。
ここで千姫は「播磨姫君」と呼ばれるようになります。
まとめ
千姫は、大坂夏の陣では家康の命令で大坂城から救出され、その後桑名藩主・本多忠政の嫡男である本多忠刻と再婚しました。
享年70で寛文6年(1666年)2月6日に江戸で亡くなりました。
晩年は江戸に住み、弟である3代将軍・徳川家光を支えました。
千姫は優しく芯の強い性格で、祖父・家康、父・秀忠から愛され、弟・家光から信頼を受けたと伝わります。