「どうする家康」に自称・三河一の色男、大久保忠世(演:小手伸也さん)という人物が登場します。
徳川家臣団の中では兄貴分的な立ち位置で、後に徳川十六神将に数えられる名臣です。
この記事では、彼の生涯を見ていきたいと思います。
大久保忠世の最期と死因
大久保忠世は1594年、豊臣政権の時期に63歳で亡くなります。
死因は不明。
ですが、戦で討ち死にという話も、処罰されたという話もないため、おそらくは病死です。
豊臣秀吉が北条氏を滅ぼして天下を統一すると、その北条氏の本拠地・小田原城は大久保忠世に与えられました。
これは東国の押さえとして重要なポジションでした。
色男?
大河ドラマでは三河一の色男を名乗る大久保忠世ですが、実際にそういう話は伝わっていません。
おそらくドラマの中のキャラ付けです。
しかし、男気と度胸があったのは事実のようで、武田信玄、織田信長、豊臣秀吉らから称賛されるという逸話が残っています。
後に家康の懐刀となる参謀、本多正信が再び徳川家に仕えることができたのも、この大久保忠世のとりなしです。
色男かどうかはわかりませんが、伝わっている話からすると、「剛気でカッコいい兄貴」ではあったようです。
大久保忠世の子孫
大久保忠世の子孫は、代々小田原藩の藩主として存続します。
明治維新を迎えるまで、子孫は小田原藩・藩主でした。
(※途中、一度改易されましたが、再び小田原藩主に復帰しています。)
大久保忠世の直系の子孫ではありませんが、大久保忠世の父の兄(伯父)の子孫に「大久保一翁(おおくぼいちおう)」という人物がいます。
彼は、幕末の功労者で、幕臣として徳川家に仕え、大政奉還や江戸無血開城に尽力しました。
その功績により、勝海舟・山岡鉄舟とともに「江戸幕府の三本柱」と呼ばれています。
大久保彦左衛門・大久保利通との関係
大久保彦左衛門とは、徳川家康に仕えた武将で、「三河物語」という書物をかいた人物です。
彼は「天下の御意見番」と呼ばれ、将軍にもことあるごとに諫言したと言われています。
この大久保彦左衛門と大久保忠世は兄弟です。
大久保忠世が兄、彦左衛門が弟で、母親はそれぞれ別の人物です。
幕末に活躍した大久保利通と大久保忠世の間に関係はあったのでしょうか?
残念ながら、大久保忠世と大久保利通の家系は全く別です。
大久保利通の家系は戦国時代頃に京都から薩摩に移ったとされています。
大久保忠世の大久保家は、関東から三河に住んでいたようなので、もし接点があるとしてもかなり昔まで遡らなければ、つながりはないものと思われます。
まとめ
大久保忠世は、関ヶ原の戦いの約6年ほど前に亡くなりました。
死因は不明です。
小田原城という関東の重要拠点を任され、その子孫は(途中一旦途絶えましたが)明治維新まで小田原藩城主を継承しています。
その後、江戸時代から明治時代にかけて、大久保という姓をもつ人物が何人か活躍していますが、大久保忠世の直接の子孫ではありません。