大河ドラマ「どうする家康」で、松重豊さんが演じる石川数正という人物がいます。
彼は、主人公・徳川家康の最側近で、常に家康のために尽くす忠臣です。
そんな石川数正は、「小牧・長久手の戦い」という豊臣秀吉との戦の後、秀吉のもとへ出奔(※寝返り)ます。
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彼はその後、どんな人生を送ったのでしょうか?
石川数正は寝返った後どうなった?
秀吉の家臣となった石川数正は、河内国(現在の大阪府)で、8万石を与えられます。
そして秀吉の「吉」の字をもらって、石川吉輝(いしかわよしてる)と改名。
その後、徳川家康も豊臣秀吉の家臣となります。
秀吉は小田原の北条氏を滅ぼし、天下を統一すると、家康の領地を関東に移転。
同じくらいのタイミングで、数正は信濃松本に移動させられています。
8万石→10万石の加増での移転でした。
数正は、松本に移るとただちに松本城を整備。
城の防衛力を強化します。
これは、領地が近くなった徳川家康に対する牽制と防衛のためと言われます。
そしてそれから約3年後、石川数正は61歳で亡くなります。
秀吉の家臣となった後は、特に大きな活躍をすることはありませんでした。
朝鮮出兵のため、肥前国(佐賀県・長崎県)にいた数正は、その陣中で亡くなったとされています。
石川数正は関ケ原でどっちについた?
前述のとおり、石川数正が亡くなったのは、秀吉が朝鮮出兵をしているころです。
数正は、秀吉より先に亡くなったため、秀吉死後の関ケ原の戦いには参加していません。
ただし、数正の後を継いだ石川康長(いしかわやすなが)は、関ケ原で徳川家康に味方しました。
この戦いで康長は、家康の子・徳川秀忠に従い、上田の真田昌幸を攻めます。
そしてそこで大敗。
関ケ原本戦には参加できませんでしたが、徳川方についたため、本領は安堵されました。
石川数正の子孫たちはどうなった?
石川数正の後を継いだ「石川康長」は、信濃松本藩の2代目藩主となります。
ですが、1613年、大久保長安(おおくぼながやす)事件という事件が起こります。
これはごく簡単に言うと、「大久保長安という代官が不正経理をした」という事件です。
現代風に言うと、「大きな権力のある公務員が公金を私的に使用した」ということです。
これを知った家康は激怒。
大久保長安はこのとき既に死亡していたため(※彼の葬儀の際に問題が発覚)、その子供たちが全員切腹。
大久保長安の家系は途絶えました。
そして、石川康長の娘が大久保長安の嫡男・大久保藤十郎に嫁いでいたため、連帯責任で康長は改易となります。
このとき、康長の弟達も連座して改易させられました。
その後、康長は、豊後国(大分県)へ流罪となり、その地で亡くなります。
享年は89。
康長や、その兄弟たちの子供がどうなったかについては、不明です。
石川数正の子孫は途絶えたわけではないかもしれませんが、子の石川康長の代をもって歴史の表舞台からは姿を消しました。
まとめ
石川数正は豊臣秀吉のもとへ出奔した後、「冷遇されているわけでもなく、厚遇されているわけでもない」という扱いを受けています。
家康の元重臣なので、スパイの疑いがあったことと、長年仕えた主君を裏切ったことで、秀吉からは重用されなかったようです。
その子たちは、後に家康から処罰を受けました。
もし石川数正がずっと家康の元にいたら、子孫たちの処遇もまた違ったものになったのかもしれません。