大阪夏の陣と冬の陣どちらが先だっけ?関ケ原からの流れをわかりやすく

大阪夏の陣と冬の陣どちらが先だっけ?関ケ原からの流れをわかりやすく 映画・ドラマ
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この記事では大阪夏の陣・大阪冬の陣をできるだけわかりやすく紹介します。

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「大阪夏の陣」と「大阪冬の陣」どっちが先?

大阪冬の陣の方が先です。

「春夏秋冬」の順番から勘違いしてしまうことが多いですが、「冬の陣」は1614年の11~12月、「夏の陣」は翌1615年の4~5月なので「冬」が先、「夏」が後です。

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いは、豊臣秀吉の死後に発生した豊臣政権内部の権力争いがきっかけになって起きた戦いです。

もともと豊臣秀吉は、独裁的な政治を行っていました。

それが幼少の後継者・豊臣秀頼へ代替わりすると、秀頼を支える五大老・五奉行という合議体の政治体制に移行します。

すると様々な原因により政治的な対立が起こり、やがてそれがエスカレートしていきます。

最終的に徳川家康を総大将とする東軍と、毛利輝元を総大将とし、石田三成らが中心となって結成された反徳川派の西軍が関ケ原の地でぶつかりました。

この結果、徳川家康の東軍が勝利。

この戦いは、「豊臣VS徳川の戦い」ではなく、あくまで「豊臣家臣の徳川」と「豊臣家臣の
毛利(石田)」
の戦いでした。

しかし、戦後の論功行賞は形式上は反秀頼勢力の討伐に対する褒美として行われたものの、実態は豊臣直轄地を徳川方の勢力へ割譲でした。

これにより豊臣家の経済力は大きく打撃を受け、徳川は実質的に全国の諸大名を支配下に置くことになりました。

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大阪冬の陣

関ヶ原の戦いに勝利し、実質的な天下人となった家康は征夷大将軍に就任し、政権づくりを始めます。

ここで問題となるのが豊臣家です。

力を削がれたとはいえ、このときも豊臣秀頼は徳川家康の主君。

徳川の長期政権を作るには服従させるか処分するかを考えなければいけません。

そんな中起こったのが、方広寺鐘銘事件と呼ばれる事件です。

【関連記事:方広寺鐘銘事件とは?

これがきっかけとなって大阪冬の陣が開戦しました。

豊臣方の総兵力は約10万人。

この兵たちは、歴戦のつわ者も数多く士気も高かったようですが、それぞれの目的が一致しておらず、寄せ集めの衆に過ぎないため、一枚岩ではなかったようです。

対する徳川の軍勢は約20万人。

家康は大阪城を取り囲ませると、和議を考え、降伏を促す矢文を送り、特に厄介だった真田信繁に対しては叔父の真田信尹を呼んで調略を試みています。

和議が暗礁に乗り上げると、徳川全軍から一斉砲撃が開始されます。

このとき大阪城本丸に撃ち込まれた砲撃を見て淀殿は和議を決意します。

講和内容は豊臣家側の条件として

  • 本丸を残して二の丸、三の丸を破壊し、惣構の南堀、西堀、東堀を埋めること
  • 淀殿を人質としない替わりに大野治長、織田有楽斎より人質を出すこと

が提出されました。

これに対し徳川家が

  • 秀頼の身の安全と本領の安堵
  • 城中諸士についての不問(※大阪城の牢人たちに処罰を与えない)

を約束する事で和議は成立。

大阪冬の陣はこれにて終了しました。

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大阪夏の陣

和議で城の破壊と堀の埋め立てが成立しましたが、これは当時の常識からいくと、堀の一部を埋めたり一部を壊したりするだけの儀礼的なものでした。

しかし、徳川方は容赦なく外堀をすべて埋め、本気で破壊にかかります。

この時約束していない内堀まで埋め立てたという逸話が伝わりますが、実際にはこの工事をめぐって大阪方と揉め事は起きていないようなので、大阪方が納得した範囲での埋め立て工事が行われていたようです。

冬の陣から年が明けて3月。

家康は、京都所司代の板倉勝重から「大阪の牢人たちが乱暴狼藉をはたらき、京へ放火しようとする噂までたっている」というような報告を受けます。

これに対し、徳川は「牢人の解雇」か「豊臣家の移封」を要求しました。

大阪方はこれを拒否。

家康は再び大阪攻めを決めます。

出陣にあたって家康は、自軍に「兵糧は3日分でよい」と命じたとされていますので、すぐに決着がつくと思っていたのでしょう。

今回の戦の兵力は徳川軍が約15万5千豊臣軍は約7万8千でした。

大阪城の籠城では勝てないと判断した豊臣方は、総大将の首を討てるチャンスがある野戦にて決戦を挑むことが決定されました。

大阪城の周辺各地でいくつもの戦が起こりますが、徳川軍は数が倍、しかも大阪方の兵は寄せ集めとあって徐々に大阪方の有力な武将が討ち取られていきます。

家康・秀忠の本陣に真田・毛利・大野隊などが突撃し、一時期徳川軍は混乱に陥りますが、兵力差を武器に次第に態勢を整えます。

そして豊臣軍は多くの将兵を失いながら、裸同然となった大阪城に逃げ込みます。

こうなると、豊臣軍に徳川軍を防ぐすべはもはやなく、大阪城内には裏切って火をつける者も現れ始めました。

落城寸前の大阪方は使者を出し、千姫を脱出させた上で秀頼・淀殿の助命嘆願を行いました。

家康はこの判断を秀忠に任せます。

翌日、秀忠は秀頼らに切腹を命じます。

これにより秀頼らは自害、後に秀頼の子・国松は潜伏しているところを捕らえられて処刑。

大阪夏の陣は終わり、栄華を誇った豊臣家は滅びました。

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