大河ドラマ「どうする家康」に忠義者の彦右衛門(演:音尾琢真さん)という人物が登場します。
この人物は、鳥居元忠という実在の人物で、関ヶ原の戦いの前哨戦で壮絶な死を遂げることになります。
大河ドラマではあまり目立っていませんが、彼にはかなり男気のあるエピソードが残っていますので、そのあたりをご紹介いたします。
鳥居元忠(彦右衛門)の最期と死因は?
鳥居元忠は、戦で討ち死にします。
「伏見城の戦い」と呼ばれる戦いで、鈴木重朝(※雑賀孫一の後継者)と一騎打ちをして討ち取られたと言われています。
「伏見城の戦い」は、関ヶ原の戦いの前哨戦です。
家康が会津の上杉景勝を成敗するため、軍を率いて出陣すると、家康がいなくなった隙を突いて石田三成らが挙兵します。
このとき、石田三成は鳥居元忠の守る伏見城を攻めました。
石田三成の4万に対して伏見城の兵は1800。
20倍以上の敵に13日間抵抗を続けましたが、孤立無援となった伏見城は、昼夜を問わない攻撃に屈します。
鳥居元忠を含め800人以上が討ち死にしたと言われています。
鳥居元忠のかっこいい生き様
鳥居元忠は、自分が死ぬことが分かっていて伏見城を預かりました。
家康が上杉討伐に行ったのは、石田三成を挙兵させて戦に持ち込むためだったとされています。
伏見城は家康が政務を執り行っていた城なので、家康が遠方へ離れると、真っ先に狙われるであろうことは容易に想像できました。
家康は鳥居元忠に伏見城を託すと出立前に元忠と酒を酌み交わし、
「自分は手勢不足のため伏見城には3000ほどしか兵を残せない、そなたには苦労をかける」と詫びます。
すると鳥居元忠は、
「そうは思いませぬ。天下無事のためなら、伏見城は我らだけで足ります。将来殿が天下を取るには1人でも多くの家臣が必要です。もしここが三成の軍に囲まれたら、火をかけて討ち死にするしかないため、多くの兵をここに残すのは無駄です。1人でも多くの兵を城からお連れ下さい。」
と返したと伝わります。
その後、石田三成は挙兵すると、まず伏見城の元忠のもとに降伏勧告の使者を送ります。
元忠はその死者を処刑して遺体を三成のもとに送り、徹底抗戦の意志を示します。
激戦の末、伏見城は落城しますが、三成は大軍を10日以上も足止めされ、その後の西軍の展開が大きく遅れる原因になりました。
同じく徳川家臣で後に「天下の御意見番」と言われた大久保彦左衛門は、鳥居元忠のことを三河武士の鏡と称賛しています。
鳥居元忠の血天井とは?どこにある?
鳥居元忠は伏見城の中で討ち取られたとされています。
亡くなった場所の畳や床板には血が染み込んでいました。
鳥居元忠の忠義を称賛した家康は、元忠の血が染み込んだ畳を江戸城に置きます。
この畳は登城した大名らが集まる部屋の階上に置き、元忠が大名たちの頭上にいるように掲げられました。
この畳は、現在栃木県壬生町の精忠神社に、畳塚として祀られています。
おなじく床板は、京都などの寺の天井に貼られたと言われます。
これは「血天井」と呼ばれ、京都の養源院、宝泉院、正伝寺、源光庵、瑞雲院などの天井に貼られていると伝わっています。
鳥居元忠の子孫
鳥居元忠は下総矢作藩(千葉県香取市)の藩祖です。
その子孫は、矢作藩、磐城平藩(福島県)、壬生藩(栃木県)など何度か移転したり、加増されたり改易されたりと、様々な藩を渡り歩きます。
ただ、明治維新の頃には壬生藩の藩主になっており、少なくとも幕末まで鳥居元忠の子孫は続きました。
鳥居元忠以降、子孫に功績を残した有名な人物は特にいません。
元忠の功績がすばらしかったため、単に藩主(お殿様)というだけでは印象に残らなかったのかもしれません。
まとめ
鳥居元忠は、三河武士の鏡と言われるほどの功績を残しました。
死ぬことが分かっていながら伏見城に籠城し、しかも、どうせ討ち死にするから兵は少なくて良いと、もともと少ない兵をさらに家康に渡しています。
その少ない兵で彼が西軍を10日以上も足止めしなかったら、関ケ原の戦いの結果も変わっていたかもしれません。