大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の終盤、第三代鎌倉殿・源実朝暗殺の犯人「公暁」が登場します。
公暁は源頼家の次男で幼名を「善哉(ぜんざい)」といい、ドラマでも比企の乱の時に登場しています。
ところで、「公暁」は「くぎょう」と読まれることが多いのですが、鎌倉殿では「こうぎょう」と読まれています。
どうでもいいと言えばどうでもいいですが、どっちの読み方が正しいのでしょうか?
「くぎょう」「こうぎょう」公暁はどっち?
まず、最初に「くぎょう」なのかい、「こうぎょう」なのかい、どっちなんだい!という議論が起こるのは、そもそも当時の史料で「公暁」の名前が漢字で書かれており、ふりがななどもふられていないからです。
公暁は長らく「くぎょう」と読むのが主流でした。
特に、江戸時代以降はずっと「くぎょう」と呼ばれていたようで、明治時代に作られた日本史の辞典で「クゲウ」と表記されて以降、「くぎょう」が正式な読み方であるとされていました。
「公暁」の名前は師匠である「公胤(こういん)」と「貞暁(じょうぎょう)」からとったものだと言われています。
実は師匠2人の読み仮名も定かではありません。
ですが、公胤が属していた園城寺では、名前を漢音(音読みの1つ)で読む風習がありました。
これに基づくと、「公暁」は「こうぎょう」もしくは「こうきょう」となり、これが本来の読み方なのではないか、と近年の研究では指摘されています。
鎌倉殿では「こうぎょう」説採用
「くぎょう」と「こうぎょう」の話と同じようなものに、「山南敬介」の話があります。
新選組総長の「山南敬介」の「山南」は「やまなみ」と読むのが通常ですが、新選組が活躍した京都では「さんなん」と呼ばれていたらしいという話が伝わっています。
本人の署名でも「三南」「三男」とされているものが見つかり、「さんなん」が本当の読み方である可能性が高いとするのが近年の研究です。
もう一つ、幕末長岡藩の「河井継之助」は長らく「かわいつぐのすけ」と読まれていましたが、地元の人達の間では「かわいつぎのすけ」と呼ばれていたため、近年では「つぎのすけ」の読み方が主流となっています。
この様に、幕末ぐらいなら当時の人から伝え聞いた話が参考になって読み方の研究が進むこともあるのですが、鎌倉時代ともなると時間が経っているため口伝えでも伝わっておらず、結局、漢字表記をみて判断するしかありません。
「公暁」の名前の由来になった2人の師匠「公胤」「貞暁」が、当時の風習で「こういん」「じょうぎょう」と呼ばれていたのであれば、「公暁」は「こうぎょう」と呼ばれていた可能性が高くなります。
「鎌倉殿の13人」ではおそらくこの説をとって従来の「くぎょう」ではなく、「こうぎょう」と呼ぶことに決めたようです。