大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の人気キャラクター、中川大志さん演じる畠山重忠が謀反を疑われて退場することになります。
畠山重忠の妻と子孫はその後どうなったのでしょうか?
また、畠山重忠は数々の伝説を残していますので、この機会にいくつかご紹介したいと思います。
畠山重忠の妻と子孫
畠山重忠の正室は「北条時政の娘」で、もう一人「足立遠元の娘」が恐らく側室として嫁いでいます。
畠山重忠の妻はこの2人です。
(※もう一人「菊の前」と呼ばれる妻がいたとの説もあります。)
2人とも名前は伝わっていません。
畠山重忠と2人の妻との間には何人かの子供がいました。
しかし、嫡男の重保をはじめ、主だった男子は「畠山重忠の乱」で亡くなり、末子の畠山重慶(はたけやまちょうけい)も乱の8年後に謀反の疑いで討ち取られています。
畠山重忠の乱のあと、重忠の正室だった「北条時政の娘」が足利義純(あしかがよしずみ)という人物と再婚しました。
この足利義純が畠山氏の跡を継ぐことになり「畠山義純」となります。
これにより畠山重忠の血筋は断絶し、畠山(足利)義純の子孫がその後の「畠山氏」を代々継ぐことになりました。
ただし、「畠山重忠の孫」は乱の災禍を免れたようで、「畠山氏」の家を継ぐことはなかったものの、後世に続いたと言われています。
また、畠山重忠の娘の1人が嫁いだ「島津忠久(しまづただひさ)」という人物がいます。
島津忠久は、九州薩摩の戦国大名であり、その後の薩摩藩の藩主となった「島津氏」の祖である人物です。
「島津忠久」と「畠山重忠の娘」の間に生まれた「島津忠時(しまづただとき)」が島津氏の2代目を継ぎ、その子孫が島津の当主を継いでいます。
ということは「島津氏」は畠山重忠の子孫でもあると言えます。
恋ヶ窪の地名の由来
話は突然変わりますが、東京都国分寺に「恋ヶ窪」という地名があります。
この地名の由来に「畠山重忠」が関わっています。
畠山重忠から気に入られた「夙妻太夫(あさづまたゆう)」という遊女がいました。
2人は恋仲となりましたが、畠山重忠は平家討伐のために西国へ旅立つことになりました。
重忠がいなくなったあと、夙妻太夫に惚れた男が重忠のことを諦めさせるため、「重忠は戦で死んだ」とウソをつきます。
このウソを真に受けた夙妻太夫は悲しみ、池に身を投げてしまいます。
この伝説から「恋ヶ窪」という地名が付けられたとされています。
さかさ矢竹
もう1つ、畠山重忠には有名な伝説があります。
北条義時率いる幕府軍に攻められ追い込まれた畠山重忠は、死の直前に2本の矢を地面に突き刺して「我が心正かればこの矢にて枝葉を生じ繁茂せよ」と言いました。
これは敵の矢が当たって絶命する直前のことだったとされています。
そう考えるとものすごい冷静さです。
その矢は地面に根付き、毎年2本ずつ竹が生えてくるようになったと伝わります。
この竹は「さかさ矢竹」と呼ばれ、現在では横浜市旭区の「畠山重忠公碑」の前に植えられています。