大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、第2代将軍・源頼家は病気で倒れたあと、回復もむなしく将軍の座を追われて伊豆の修善寺に幽閉されます。
このあと、「吾妻鏡」には「源頼家が亡くなったという報告があった」とだけ記されていて、頼家の最期がどうなったのかはわかりません。
しかし、別の史料や伝説をみてみると、頼家の最期にはいくつかの逸話が存在します。
その中から、いくつか頼家の最期についてのエピソードを紹介したいと思います。
源頼家の最後
慈円という僧が書いた「愚管抄(ぐかんしょう)」という史料があります。
そこには頼家の最期について、このような記述があります。
「修禅寺にてまた頼家入道を刺殺してけり。とみに、えとりつめざりければ、頸に緒をつけ、ふぐりを取りなどして殺してけりと聞えき。」
愚管抄
現代語訳はだいたいこんな感じです。
修善寺で頼家を殺した。抵抗が激しかったので、首に紐を巻きつけて、ふぐり(※男の急所)を取るなどして殺したと聞いている。
(※「修禅寺」と「修善寺」は同じ寺です。)
頼家が襲われたのは入浴中だったとのことです。
風呂に入っていたら、急に刺客がやってきて抵抗したら紐で首をしめられたうえで…想像しただけで顔をしかめたくなるような最期だったようです。
ただ、慈円も事件現場にいたわけではなく、伝え聞いた話を書いているので、本当にそうだったのかというのはわかりません。
修善寺の源頼家の仮面
「修善寺」(※現在は修禅寺)に「頼家の仮面」というものが残っています。
これは詳細不明のまま修禅寺に宝として伝わっている仮面です。
(※仮面の画像は著作権の関係上、直接掲載できません。お手数ですが、見たい方は以下の公式サイトからご覧ください。)
結構、恐ろしい見た目の面ではありませんでしたか?
少なくとも頼家の顔を模して作られた面には見えません。
この面を見た「岡本綺堂(おかもときどう)」という小説家・劇作家が、新歌舞伎の「修禅寺物語」という作品を作っています。
この作品は明治時代の終わりごろに作られたものなのでフィクションの要素が強いですが、頼家の最期に関する一つの考察として以下にあらすじをご紹介します。
修善寺物語のあらすじ
夜叉王(やしゃおう)という面を作る職人がいました。
彼は伊豆の修善寺に幽閉された源頼家から、頼家の顔を写した面を作るように依頼を受けます。
しかし、半年経ってもまだ面はできません。
何度作り直しても、夜叉王にとって満足できる面は完成しませんでした。
業を煮やした頼家が「面ができない理由を言え」と夜叉王に迫ります。
これに対して夜叉王は、「いつできるかは約束できない」と答えます。
頼家は怒って夜叉王を斬ろうとしました。
それを見た夜叉王の子供たちが、あわてて夜叉王が作った面の試作品を頼家に差し出します。
頼家はその試作品の素晴らしい出来に満足しました。
ただ、試作品(失敗作)を渡すことになった夜叉王は、耐えられなくなり今まで作った面をすべて壊そうとします。
その場は子の説得によりなんとか踏みとどまりましたが、夜叉王は自分の腕不足を嘆いて落ち込みます。
ほどなくして、頼家のいる修善寺が襲われました。
修善寺から逃げてきた僧の話を聞くと、頼家は討ち取られたとのことです。
そこで夜叉王は悟ります。
夜叉王が何度頼家の面を写そうとしても上手くいかなかったのは、彼の腕が拙いからではなく、逆に腕が優れすぎていたためでした。
目の前の頼家の顔だけでなく、その後の暗い運命を予見し、頼家の死相まで見えていたから何度やっても満足のいく頼家の面が出来なかったのです。
登場人物を含め大幅に省略しましたが、「修禅寺物語」の概要はこのような話です。