大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に善児(ぜんじ)という殺し屋が登場します。
鎌倉殿の13人の視聴者なら知らない人はいないほどの有名人で、オープニングクレジットに名前があるだけで悲鳴が上がるほどのアサシンです。
そんな善児に関する気になる情報を見つけましたのでご紹介したいと思います。
善児は一幡をかばって退場?
善児は「比企の乱」で一幡をかばいました。
そのせいで退場してしまうかもしれません。
以前、あるインタビューで三谷幸喜さんがこのようなことを語っていました。
善児は、もともと最終回まで登場させようとは思っていなかったので、どんな幕引きがあるのだろうかと考えていました。 ここまで成長した善児はどんな退場のさせ方をさせればみんな満足してもらえるのかということを踏まえて(退場シーンを)書きました。
善児は「自分を好いてくれているからできない」と北条義時からの一幡殺害の命令を拒否しました。
頼朝が亡くなった後の義時はだんだん感情が薄れ、鎌倉・北条のために手段を選ばず行動するようになってきています。
初期のころの善児と義時が入れ替わってしまったかのようです。
この状態の義時なら、自分の命令を忠実に聞けないからといって善児を始末してしまうことも十分考えられます。
「最終回までは登場しない」となると、もしかしたらそろそろ善児も退場の時が迫っているのかもしれません。
北条宗時の遺品
一幡をかばったことともう1つ、北条義時には善児を殺したい理由があります。
それは、兄の北条宗時を善児に殺されたことです。
宗時が暗殺された際、義時は別行動をしていましたので、善児が宗時を殺したことを知りませんでした。
というか、宗時が死んだことすら知りません。
ですが、第29回の冒頭で、義時が「梶原景時から預かっていた袋」を善児に渡すシーンがあります。
この袋の中身は、「兄・北条宗時の巾着袋」です。
義時は中身を見ていないと言っていましたが、本当のところはわかりません。
そして袋の中を見れば、兄の仇が善児であることに気づくことができます。
第33回の予告にも時房らしき人物が袋の中身をみて「これは三郎兄上(北条宗時)の…」と言葉を発するシーンがあります。
善時に手段を渡す前、既に義時は袋の中身を見ていて、善児が宗時を殺したことを悟り、善児を始末する機会を伺っていたとも考えられます。
ここでさっきの三谷さんの言葉を思い返してみてください。
「みんなが満足する退場の仕方」とありました。
「義時が兄・宗時の仇を討つ」となれば、満足する退場と言えませんでしょうか?(※追記:これはミスリードでした。)
追記:善児の最期
第33回「修善寺」で善児は最期を迎えました。
義時・時房は兄である北条宗時の形見が善児の家にあることを発見し、善児が宗時の仇であることを知ります。
しかし、義時は善児を「必要な男」として見逃します。
いつものように仕事を依頼し、善児もいつものように「へい」とだけ返事をして、源頼家の暗殺に向かいます。
頼家のいる修禅寺では、猿楽が催されていました。
そこに招かれた北条泰時はなにやら不穏な空気を感じます。
泰時は猿楽の演者の中に善児が紛れていることに気づきました。
善児に斬りかかろうとしますが、組み伏せられ「あんたは殺しちゃならないと言われてる」と見逃されます。
そして善児は、源頼家を襲います。
源頼家も必死に抵抗し、善児に一太刀浴びせたうえでつばぜり合いに持ち込みます。
すると善児の目に「一幡」と書かれた紙が飛び込んで来ました。
善児の動きが一瞬止まり、その隙に頼家は善児を切りつけ、善児は大怪我を負います。
しかし、頼家はその後、トウにとどめを刺されて息絶えます。
大怪我を負った善児は、虫の息になりながら現場を離れていました。
その背後から「トウ」が善児を突き刺します。
「ずっとこの時を待っていた。父の仇。母の仇。」と善児を斬りつけます。
トウは弟子になりながら、ずっと両親の仇である善児を殺す機会をうかがっていました。
「かつて修善寺で両親を殺されたトウが、同じ場所で両親の仇である善児を討つ」というのが善児の最期となりました。
第33回のタイトル「修禅寺(しゅぜんじ)」は「終善児(しゅうぜんじ)」もしくは「朱善児(しゅぜんじ)」とかけられていたようです。
善児のモデルは金窪行親(かなくぼゆきちか)か?
「善児」は鎌倉殿の13人のオリジナルキャラです。
ですが、モデルとなった人物がいる可能性はあります。
そのモデル候補の一人として「金窪行親(かなくぼゆきちか)」という人物の名前が上げられます。
金窪行親は、武蔵国(埼玉県)出身の武士で、北条義時の側近でした。
「比企能員の変」の時に比企の館を攻めた一人として「吾妻鏡」に初登場します。
源頼家が亡くなった後、その家臣たちに不穏な動きがあったらしく、行親はその家臣を捕らえています。
以降、謀反人の捕縛・尋問、騒ぎの鎮圧、反乱分子の討伐など北条義時の側近として活躍しています。
関連記事:金窪行親とは?
金窪行親の最後は?
金窪行親は、北条義時が亡くなったあと、息子の北条泰時に仕えています。
泰時のもとでは、御所の警護や罪人の身柄の預かりなどの役目を果たしました。
また、金窪行親は刀剣の鑑定にも通じていたようで、4代将軍藤原頼経から「儀式中に刀が鞘から抜けてしまったのは私になにか問題があるからか?」というような質問を受けています。
そしてこの質問を受けたという記述が「吾妻鏡」における金窪行親に関する最後の記述となっています。
その後どうなったのか、いつ亡くなったのかについては何もわかっていません。
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