源義経の最期と壇ノ浦の戦いから奥州での戦いまでの流れを簡単に

三浦義村 映画・ドラマ
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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源平合戦のクライマックスとして「壇ノ浦の戦い」が描かれます。

この話の中心はやはり「源義経」となりそうです。

壇ノ浦で大活躍した源義経が、その後どうなるのか、簡単にまとめました。

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源義経の最期

源義経は、兄である源頼朝から謀反の疑いをかけられ、奥州藤原氏のもとへ身を寄せましたが、そこで頼朝の圧力に屈した藤原軍に攻められ、最期は自害して果てます。

壇ノ浦の戦いでの勝利からわずか4年後のことでした。

享年は31です。

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壇ノ浦の戦い

壇ノ浦の戦いで、義経は平氏にとどめを刺すことになります。

源氏は830隻(※3000隻説もあり)、平氏は500隻(※1000隻説もあり)という戦力で、正午ごろに戦いが始まったとされています。

結果は源氏の大勝利。

平氏はこの戦いで滅亡します。

なお、有名な「義経の八艘飛び」のエピソードはこのときのものです。

平氏方に平教経(たいらののりつね)という強い武将がいました。

平氏の負けが決定的になると教経は「せめて敵の大将だけでも道連れにしよう」と考えます。

教経は源氏の大将である義経の舟を見つけると、これに飛び乗り義経を討とうとします。

教経が襲ってきた瞬間、義経は舟から舟へと飛び移り、八艘彼方まで飛び去りました。

義経を取り逃がした教経は、源氏方の大男二人を両脇に抱えたまま入水自殺したとされています。

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義経と頼朝の対立

壇ノ浦で見事平氏を滅ぼした義経ですが、その後、兄頼朝と対立することになります。

詳しい経緯はこちらの関連記事:義経と頼朝の対立の理由を御覧ください。

頼朝の怒りをかってしまった義経は、鎌倉に入ることを禁止されます。

これを受けて義経も頼朝を恨むようになっていきます。

あるとき、京へ戻った義経の元に、頼朝の使いが来て「源行家(頼朝・義経の叔父)」を命じます。

義経は自身が病気であることと、行家が源氏であるということを理由にこれを断ります。

これを聞いた頼朝は、「義経が叔父・行家と通じて謀反を企んでいる」と判断し、義経討伐を決断することになります。

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義経追討軍との戦い

義経討伐を決めた頼朝は、部下に命じて京の義経邸を襲撃させます。

これを返り討ちにした義経は、捕らえた頼朝の部下から、この襲撃は頼朝の命であることを聞き出します。

怒った義経は頼朝打倒を決意。

頼朝討伐の宣旨を後白河法皇から得ますが、思ったほど兵が集まりません。

そうこうしているうちに、今度は頼朝が逆に義経討伐の宣旨を後白河法皇から得て、軍を送り込んできます。

義経ははじめ九州に逃れようとしますが、暴風雨で船が出せず断念。

吉野や京都周辺に身を潜めますが、関係者や部下が次々と発見され討たれていきます。

窮地に陥った義経は奥州の藤原氏を頼り、山伏に扮して平泉へと向かいます。

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奥州での最期

奥州の有力者・藤原秀衡は義経を匿い、頼朝に対抗しようとしていました。

しかし、義経が奥州に来てからわずか半年ほど経ったころに、秀衡は病気で亡くなります。

後を継いだ藤原泰衡に対し、鎌倉の頼朝から強く圧力がかかります。

ついに泰衡は圧力に屈し、父秀衡の遺言に背いて義経を襲います。

十数人の義経一行に対し、泰衡は500人ほどの軍勢で館を取り囲みます。

部下が応戦して次々と討ち取られる中、義経は一切戦うこと無く、家族と仏堂に入り、そこで自害しました。

義経が亡くなってすぐ、義経を匿った罪で泰衡が率いる奥州藤原氏が頼朝に討伐されます(奥州合戦)。

この奥州合戦の終わりで、源頼朝の挙兵から続いた日本国内の内乱が終わりを迎え、以降、鎌倉幕府の安定へと時代が移っていきます。

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