大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の源平合戦がクライマックスに差し掛かり、盛り上がってきています。
ところで、源頼朝は鎌倉幕府を開いた後、どうなったのかご存知でしょうか?
鎌倉幕府を開き、日本初の武家政権を樹立した源頼朝ですが、征夷大将軍任命後の動向はあまり知られていません。
そこで、この記事では「源頼朝の最期」について記載します。
源頼朝は最期どうなった?
源頼朝は最期は病気で亡くなったとされています。
西暦1199年、満51歳のときです。
相模川で行われた橋供養の帰りに体調を崩し、その17日後に亡くなったと記録されています。
ここまでは、複数の史料に記載されている内容が一致しているため事実であるとみられます。
しかし、死因についての詳細は不明です。
源頼朝は当時の最高権力者であり、その地位のまま亡くなったにもかかわらず、「何故亡くなったのかがわからない」という不思議な人物です。
源頼朝の死因は何だったのか?
源頼朝の死因は先程記載したように不明です。
今となっては知るすべもありませんが、いくつかの説が伝わっていますので、参考までにご紹介します。
落馬
歴史書「吾妻鏡」によると、源頼朝は相模川での橋供養(橋をかけ終わった後にするお祈りのような儀式)から鎌倉に帰る途中に源頼朝は落馬したとされています。
その落馬が原因となって床に伏せるようになり、そのまま亡くなってしまったとのことです。
これが一番有名な説です。
この説に基づくと、落馬が原因で寝込んだということなので、馬から落ちたときに頭などを打ち、脳内出血などを引き起こしたことが原因と推察されます。
一応、鎌倉幕府の正式な歴史書である吾妻鏡に落馬の事実が記載されていますが、吾妻鏡には「落馬が原因で亡くなった」ではなく、「落馬後、しばらくしてから亡くなった」ということしか書いていないため、落馬が直接の原因であるとは言い切れません。
糖尿病
別の史料では、「飲水の病」を患ったとの記述があります。
この「飲水の病」というのが「糖尿病」ではないかという説があります。
糖尿病を患うと水を欲しがるようになると言われるからです。
しかし、頼朝が糖尿病であったなら、他の症状がどこかの史料に記載されていてもいいはずですが、そのような記述がどこにも見当たらないため、信憑性は低い説だとされています。
溺死
頼朝の死に関連する記述には、水を連想させる物がたくさんあります。
さらに頼朝が亡くなる直前に橋供養をしたと言われる相模川の河口付近は、別名を「馬入川」といいます。
これは、源頼朝の乗った馬が突然暴れだして川に入り、頼朝が落馬したためについた名前だと伝わっています。
「飲水の病」というのも、この時水を飲みすぎて何らかの体調不良が起きたのではないかのではないかと言われています。
暗殺
暗殺されたのではないかという説も存在します。
前述の「吾妻鏡」は源氏が途絶えた後に、幕府の実権を握った執権の北条氏が編纂したものです。
北条氏にとって都合が悪いことは書けないという事情があるため、「源頼朝の死因を書くと都合が悪い」≒「北条氏が暗殺した」ということではないかとする説です。
ただ、この説を裏付ける根拠のようなものは一切存在せず、ただの噂の域を出ない推測です。
事故
暗殺説とも通じますが、「最高権力者が不甲斐ない最期をとげたことは歴史書に載せられない」ということで、頼朝の死が情けない理由だったとする説です。
具体的には、「愛人のところに夜這いに行く途中に、不審人物とみなされ斬られてしまった」というものです。
確かにもしこれが本当ならば公には出来ないでしょう。
しかし、この説にも何の根拠もなく、ただの想像が生み出した噂話のような説です。
大河ドラマの中の頼朝ならありえない話ではないように見えるかもしれませんが…。
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