大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、いよいよ「十三人の合議制」が始まり、ドラマタイトルの13人が勢ぞろいしました。
しかし、北条義時が高らかにそのことを伝えた直後、頼家は反発し、6人の近習を呼びました。
頼家は、自分がこの6人の近習と政治を行う旨を宣言し、喧嘩別れのような状態になります。
このあたりのことは、ドラマの演出ではなく、実際に起きた出来事だったようです。
ドラマでは近習は6人でしたが、「吾妻鏡」では、5人の近習を指名したとあります。
この5人の近習達はどんな人物だったのでしょうか?
源頼家の側近5(6)人衆はどんな人?
「十三人の合議制」に源頼家が反発して指名した5人の側近は、「頼家への目通りを許され」「歯向かってはならない」という特権を持っていました。
要するに、少なくとも命令上は、この5人以外の御家人は頼家に会うこともできず、しかも彼らに反発することはできませんでした。(※実際この頼家の命令がどれだけ守られていたかは不明です。)
非常に強い権限を持っていたはずですが、頼家政権自体が短期で終わったこともあり、特に大きな活躍をしたような記録もありません。
また、「吾妻鏡」には、5人の近習と記述されていますが、実際の名前は4人しか出ていません。
あと一人が不明で諸説ありです。
さらに、5人ではなく6人だったのではないかという説もあり、ドラマでは6人説を取ったようです。
以下、簡単に頼家の近習個人の紹介をします。
「吾妻鏡」に登場する側近
「吾妻鏡」に名前が登場する5人の近習は「小笠原長経」・「比企宗朝」・「比企時員」・「中野能成」の4人です。
小笠原長経
小笠原長経は、甲斐源氏の一門出身で、10歳の頃に起きた「奥州合戦」に父と共に参加しています。
その後に頼家の側近となったようです。
「安達景盛(安達盛長の嫡男)」の愛妾を頼家が奪った際には、影盛の館を包囲しています。
その後の「比企能員の変」で比企氏方として捕まり、鎌倉を追われ、最終的には阿波国(徳島県)の守護となり晩年を過ごしたようです。
比企時員
「13人」の一人、比企能員の子です。
頼家が初めて鎧を着用して馬に乗った時から側にいたとされています。
頼家が熱中していたと言われる蹴鞠の会には必ず出席しており、頼家の猟犬の飼育係にも任ぜられるなど、信任が厚かったようです。
阿野全成に謀反の疑いがかけられると、頼家の命令でその妻である阿波局(※ドラマでは実衣)の引き渡しを求めますが、これは北条政子に阻止されています。
最期は比企能員の変の際に討ち死にしています。
比企宗朝
彼も比企能員の子です。
他の近習とともに、「安達景盛の愛妾強奪事件」の際に安達邸を包囲しています。
その後も頼家に仕えましたが、時員と同じく「比企能員の変」で討たれています。
中野能成
藤原助弘という人物の子だとされています。
奥州合戦の頃から従っており、頼家の5人の近習に選ばれ、彼の猟犬の飼育係も務めています。
北条泰時が蹴鞠にふける頼家を諌めた逸話がありますが、そのとき頼家に取り次いだのがこの中野能成だとされています。
「吾妻鏡」では、「比企能員の変」で比企方として捕縛され、流罪となったとされていますが、他の史料では、捕縛後すぐに許され本領安堵されています。
一説には、頼家の側近となって情報を流す北条方のスパイだったのではないかと言われています。
他の史料に出てくる側近
吾妻鏡には「5人の側近」とありながら、4人しか名前が出てきません。
このため、もう一人は「北条時房」ではないかとの説がありますが、他の史料をみると別の人物の名前が出てきます。
「北条九代記」という歴史書では、「小笠原長経」・「比企宗員」・「和田朝盛」・「中野能成」・「細野四郎」の5人の名前が出てきます。
「比企宗員」は「比企時員」の別名で、こちらには「比企宗朝」が登場しません。
このため、5人の近習は吾妻鏡と北条九代記に名前が出てくる「小笠原長経」・「比企宗朝」・「比企時員(宗員)」・「中野能成」・「細野四郎」の6人だったのではないかという説も存在します。
和田朝盛
和田朝盛は、13人の一人「和田義盛」の孫です。
源頼家からも、3代将軍源実朝からも信頼が厚かったとされています。
後に北条氏に対して和田一族が決起した「和田合戦」にも参加しています。
そこで和田一族は滅びますが、朝盛は運良く生き延びます。
そして北条氏への恨みからか、承久の乱に朝廷方として参加。
戦に敗れるとしばらくは逃亡していましたが捕縛。
その後どうなったのかは不明です。
細野四郎
彼はこの中で一番不明な部分が多い人物です。
そもそも四郎は通称で、諱(本名)すら分かっていません。
比企能員の変の際に捕らえられたとされていますが、その他のことはほぼ不明です。
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